住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その2)

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 その楠木一家に大きな転機が訪れます。
 それは、まず父楠木正成の[湊川合戦]での戦死。
 そして月日は流れ、長男・次男の戦死する[四條畷合戦]です。
 その四條畷合戦の前、長男正行(まさつら)は、正儀に言いました。
「正儀、お前は故郷河内(かわち)に残れ。
 後の事はお前に任す。・・おそらく俺たちは父のように戦さで死ぬだろう。
 お前は知恵者だ。その冷静な頭脳で楠木一族を守ってくれ。
 頼んだそ!」
と言って戦場で次男と共に戦死しました。
 こうして正儀は、わずか20歳の若さで楠木一族の頭領となったのでした。
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 正儀はお寺で亡き父や兄たちに呟きました。
「父上、兄上、どうしてあのような負けるとわかってる戦さで、命を落とさねばならなかったのですか?!
 無駄死にでは無いのですか⁈
 公家たちからの命令だったからですか?
 彼らはいつも命令するだけ・・。
 戦って血を流すのはいつも武士だけ。
 そしていつも万民は迷惑を被る。
 あぁ、私は命令されるだけではなく、正しく自分で考えて和平の道を選びたい。
・・しかし私は武士の頭領。命令どおりに戦い続けるしか無いのでしょうか?」と呟いたのでした。
 正儀の苦悩のはじまりでした。つづく
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(富田林:正儀の母(久子さま)の住居跡[観音寺内])
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(楠母神社:正儀等三人の子と母の像)

紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その1)

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 昔々の南北朝時代のお話。
 これは[楠木正成(まさしげ)]の三男[楠木正儀(くすのきまさのり)のお話。
 この正儀(まさのり)は、長男の熱血漢[楠木正行(まさつら)]とは違って、物静かで思慮深い三男坊でした。
 だからと言って、決して彼は臆病者ではありません。
 彼はやはり父親[正成]の血を受け継いで、優しさや勇気を十二分に備えておりました。
 がしかし、その思慮深い性格が、彼を悲劇へと向わせます。
 ・・さてこのお話は、父・楠木正成の熱い血を受け継ぎながらも、平和主義ゆえに歴史に揉まれ、結果的に『裏切り者』『臆病者』と呼ばれた一人の武将の物語です。
 はじまり、はじまり~ 
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 楠木正儀は、正成の長男や次男の兄弟とは違って、一人読書に夢中になる少年でした。
 兄たちは「おのれー朝敵め!おれがいつかやっつけてやる!」と毎日剣術に汗を流していました。
 が正儀は「私は平和というのは、チカラでねじ伏せて勝ち取るものではないと思う。お互いが話し合い、譲り合ってこそ平和は訪れるものだと思うんだ・・」と思っていました。つづく
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(金剛山:楠木正儀の墓)

紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その7 最終回)

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 楠木正行(まさつら)亡くなれど・・、
 こののち四十数年も、楠木党の血脈続き、帝(みかど)の為に奮います。
 やがて朝廷一つになるが、正成親子の名は続き、大楠公(だいなんこう)の正成公。小楠公(しょうなんこう)の正行公と、忠臣この世に名を遺す。
 勇気、仁徳、思いやり・・、人の鏡と我々に、大事な教えを残しゆく。 おしまい 
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(千早赤坂村[千早城]跡)
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(この男を忘れちゃいけません!・・第三の男・楠木正儀(まさのり)、楠木正成の三男です。楠木シリーズの完結編、『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』、もうすぐ紙芝居で登場!・・つづく)

紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その6)

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 時代はここでワープする。
・・正行(まさつら)公が亡くなって、五百と三十年が経ちました。
 ここに、[正行]生き様感動し、行動起こした一人の男が現れた。
 その名は[適塾(てきじゅく)]出身の『赤十字(せきじゅうじ)社』をこしらえた、[佐野(さの)の常民(つねおみ)]でありました。
 明治の十年、佐賀県出身[常民]は、国内最後の戦争の[西南の役(鹿児島で起こった内乱)]の後を見る。
「戦争、なんと悲惨なものか!」と、涙流した常民は、
「敵と味方の区別なく、負傷者助ける病院を、あぁ作らせてくださいな!」
彼は政府に訴えた。
・・・そして[正行]公を思い出し、「今も負傷者泣いている。苦しい痛いと泣いている。敵と味方は違えども、彼を全て救いたい。昨日の敵は今日の友。あぁ川で溺れた敵兵を、救ったサムライ正行の、如くに我は助けたい!」
この熱意、政府の心は動いたぞ!
 ニッポン赤十字社前身の、ここに「博愛(はくあい)社」出来ました。
この時、負傷者千四百、多くの命が救われた。
 正行公の生き様は、ここでも確かに輝いた!
 後世で、ピカッと輝いた。 つづく(次回最終回)
 

紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その5)

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 「目指すは大将、首一つ!
 我らの勝ち目はそれしかない!
 皆の者、命を惜しむな、名を惜しめ!」
 敵は五万の大軍に、こちらは一千わずかな兵。
 ここは大阪、[四条の縄手(なわて)]。(※現在の四條畷市か?隣町:東大阪市か?東大阪にも同じような名前の場所があり、こちらにも[正行公]の首塚がある。京都や九州(落ち延び説)にもあるらしい。いったい首塚、楠公いや、何個(ナンコ)あんねん!以上余談)
 楠木兄弟[正行・次男:正時]、ひたすらに敵陣めざして進みます。
 されど、敵の矢雨あられ!嵐のように襲います。
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 さすがの楠木兄弟も、鎧全身矢を受けて、ついに最後を迎えます。
「・・我が弟、正時よ。残念ながらここまでじゃ。共にあの世で父に会おう。そこで父に報告じゃ!」
 そして兄弟果てました。
 この時、正行二十三。
・・若い最後でありました。あぁ合掌・・つづく
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(正行公を祀る四條畷神社)

紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その4)

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「正行(まさつら)公よ、ようやった!・・ところで、わし等は明日にでも、京の都に帰れるか⁈」
「お公家の皆さま、敵はまだ何十万も居るのです。そんな楽にはいきません。おそらく次は奇襲では、通じぬ軍で来るでしょう。我らはここで今一度、お山に籠って機会待ち、おびき寄せる戦法を・・、」
「何をたわけた事いうか!今を逃して何とする。ここが我らの絶好機会。正行、すぐに出陣し、敵をやっつけ帰還せよ。そして我等を都に戻せ!」
「・・それは無理でございます。」
「何を武士の分際で!‥わし等のいう事逆らうか!」
「・・・・・わかりました。」と正行は伏し目ながらに御所を去る。
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「家来たちよ、聞いてくれ。おそらく我等は死ぬだろう。どうやら幕府は威信を掛けて、数万以上の大軍で、攻めてくること違いない。それに比べて、我らは数千。奇襲で勝てる訳がない。
 帝(みかど)は『死ぬな』と云われたが、それは当然無理な事。今まだ生きている皆の名を、この過去帖に書いておく。これをお寺に奉納し、今生別れとするとした。」
 その後正行、矢じり持ち、辞世を扉に彫りました。
 そして出陣したのです。
 その姿、そっと見つめる[弁内侍(べんないし)]=(正行の恋人か⁈)
 正行慕った初恋なれど、叶わぬ恋と涙を拭いて、去り行く姿に分かれを告げる・・。 つづく

紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その3)

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細川・山名連合軍、こうとなってはどこまでも、逃げてゆくしかありません。
 が、がしかし、途中ナニワ(大阪市内)の大橋で、大軍一度に渡ろうと、橋に乗ったが大失敗。
 渡辺(わたなべ)橋は中ほどで、底が抜け落ち崩れます!
 この時季節は冬でした。
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 溺れ震えて泣く武士ら。
 こんな場面を見たならば、敵も味方もありません。
 正行(まさつら)、武士の心意気。父の教えの思いやり。
 正行、戦さをそこで止め、溺れる敵兵助けます。
 そして薬や食べ物を、手渡し静かに送ります。
 幕府の敵兵涙ため、皆手を合わせて帰ります。
 武士の情けに感謝して・・。
 この美談、さらにラストへ橋渡し。ちょこっと、おまけで続きます。 つづく

紙芝居:『楠木正行もここにあり!』(その2)

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・・それから10年経ちました。
 今では正行(まさつら)立派な武将。
 奈良の吉野の帝(みかど)のもとへ、今日もご機嫌伺に、馬を走らせ向かいます。
 後醍醐帝はすでに亡く、新・天皇でありました。
 後村上(ごむらかみ)新天皇は言われます。
「正行よ、北の朝廷・幕府軍、この度大軍引き連れて、我等を攻めに来るようじゃ。何とかなるか、正行よ。」
「帝(みかど)、我らは少人数。されどわが父[正成(まさしげ)]の奇襲戦法取り入れば、恐れることはありません。足利(あしかが)軍勢、楠木の飛んで火にいる夏の虫!。帝、しかとごらんあれ!」
「頼むぞ楠木、出陣じゃ!」 
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(正行の故郷、千早赤阪村[建水分神社])
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「やあ、やあ!我こそは楠木正成の嫡男、楠木正行なるぞー!腕に覚えあるものは、我にその腕みせてみよー!正成の子、楠木正行もここにありー!」
 正行雄叫び響きます。
 その声聞いた敵方は「やややぁ、あそこに居るは大将ぞ!一騎でおるぞ、皆の者!」。 
 我や先にと正行を、見つけて大軍追って来た。
「しめたっ!罠にかかったぞ。鬼さんこちら、手のなる方へ!」
 正行、仕掛けのある場所へ、逃げて逃げて、逃げまくるー。
 足利幕府の精鋭部隊、細川・山名の連合軍。
 罠とも知らず大軍が、入れぬ道に突っ込んだ。誘い込まれて突っ込んだ。
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 「げっげっげっっ、しまった罠わなじゃ!林の中から敵が出た。楠木軍に囲まれた!今度は我らが逃げる番。命あっての物種じゃ、京の都へ逃げるのじゃー!」
 形勢逆転、大勝利。
 逃げるは足利幕府軍。
「追え追え、逃がしてなるものか!京の都にゃ、帰しゃせぬ。」
 正行軍は懸命に、敵を追いかけ駆けました。
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(正行激戦地、羽曳野市誉田林古戦場跡)
 つづく

紙芝居:『楠木正行(まさつら)もここにあり!』(その1)

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 昔々の室町時代・・。
 足利尊氏(あしかがたかうじ)、天下を納め、武士の幕府を開いてみたが、平和はまだまだ遠かった。
 それは天下に二人の帝(みかど)。
 朝廷二つの南北朝。
 お互い『私がホントの天皇だ!みんな私の配下におなり。』
 こんな言い合い続けたら、武士や公家ほか庶民まで、これでは日ノ本真っ二つ。
 その時、若武者現れた。「私は何があろうとも、敵が百万居ようとも、後醍醐天皇守ります。南の朝廷守ります。これは父親[正成(まさしげ)]の遺言ですから守ります。」
 そう誓ったは我らが河内(かわち)、楠木党(くすのきとう)の跡取り息子、楠木正行(まさつら)でありました。
 さあてさて、このお話は[小楠公(しょうなんこう)]こと、正行公の意地と忠義と優しさがあふれた武士道ものがたりです。それでは、はじまりはじまりー。
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 話は少しさかのぼり・・。
 湊川(みなとがわ)での戦が終わり、悲しいしらせが舞いこんだ。
 ここは南の河内の屋敷。
 楠木正成(まさしげ)、妻と子は悲しみこらえておりました。
 それは父親正成(まさしげ)の首と戦死の知らせとが、届いたからでありました。
 涙と共に正行は「父上、ご無念お察しします。私も一緒に参ります。」
 短刀抜いて、切腹しようと思ったその瞬間。
 母親それを止めました。
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 「正行よ、ここで死んではいけません。朝廷守る事こそが、お前の父から引き継いだ、大事な大事な約束じゃ。そなたがここで死んだなら、父との約束どうします⁉」
 母は涙を流しつつ、正行公に言いました。
 「・・私が愚かでありました。切腹などはもうしません。
 私はこれから学問し、剣術励んでまいります。父に劣らぬサムライに、私はきっとなりまする。」
 若き棟梁正行の新たな誓いでありました。 つづく
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(正行公を祀る四条畷神社内の母と子の銅像)

紙芝居:『神武東征記』(その6 最終回)

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(奈良県『橿原神宮』)
 そしてイワレビコの命(みこと)は、大和の国『橿原(かしはら)の宮』で、初代天皇『のちの神武(じんむ)天皇』として即位の儀式をされました。
 これが[建国の始まり](紀元前660年?)と云われています。
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 その時、神武天皇は「大きな都を開き、すべての国を一つの家のようにしようではないか!」と宣言されたそうです。
 こののち、神武天皇は(126才・あるいは127才)まで長生きされたそうです。
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 波乱の生涯を送られた伝説の初代のミコト『神武天皇』。
 今もその御一代記は『古事記』や『日本書紀』に語り継がれています。おしまい
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(おまけ[大阪府河南町・寛弘寺古墳])
 ・・少しだけ余談のおまけ話。
 神武天皇の跡継ぎ(二代目天皇)は、次男の[綏靖(すいぜい)]天皇が継がれたといわれています。
 そして長男の[神八井耳命(かむやいみみのみこと)]は、弟の天皇の(なぜか?)サポートに回られました。
 その舌を噛みそうな[神八井耳(かむやいみみ)のミコト]にはたくさんのお子様が居られたそうで、そのお一人のご子孫が[紺口県主(こんく(かんく)あがたぬし)]と云われています。(寛弘寺古墳の主ではないか?とも言われています)
 そう!その[紺口(こんく)県主]が、私のお寺のある地名である河南町[寛弘寺(かんこうじ)]の名前の由来になっているそうです。
 [こんく]、・・[こんくう]・・[かんくう]・・[かんこう]、[かんこうじ]‥・『寛弘寺』、寛弘山観念寺!バンザーイ、バンザーイ! ・・知らんけど。(笑)

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