住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『金剛重光と宮大工「金剛組」』(その3)

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金剛組の初代棟梁「金剛重光」が亡くなって、何百年もたちました。
この間、金剛組は聖徳太子の言葉を守り、何十代も四天王寺・五重塔を守り続けました。
 しかし、その間お寺の守護が順風満帆であったという訳ではありません。
 戦国時代の石山合戦や大阪冬の陣での塔の焼失。
 又、江戸時代の落雷での焼失。昭和に入っての太平洋戦争での大阪大空襲での焼失もありました。
このような戦乱や自然災害を幾つも乗り越えて、不死鳥のように復活して、再建築をして甦ったのです。
そう、金剛組は頑張ったのです。
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又「金剛組」会社内でも様々な苦難が襲い掛かります。
昭和に入っての経営難から37代目棟梁の自死。
その危機を乗り越えたのが、残された妻の史上初となる38代女棟梁の就任でした。
・・が、又もや襲い掛かったのが、室戸台風の五重塔破壊という自然災害でした。この時、再建を希望する四天王寺管長に、女棟梁は「私達は命をかけて再建築させてもらいます!」と言って、見事に再建したという事です。
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そののち、金剛組の史上最大の危機となった経営不振による倒産危機が来ます。
がしかし、これも同じ難波の建築会社の社長が、「金剛組を潰したら大阪の恥や!」という一言で、金剛組は出資を受けて再出発出来ました。
正に大阪の義理人情が「金剛組」を救ったのです。
そして、現在も四天王寺境内に「全国宮大工発祥の地」として、『番匠堂』が建ち、大工の神仏とも言われている『曲尺(かねじゃく)を持った聖徳太子』が祀られています。つづく

紙芝居:『金剛重光と宮大工「金剛組」』(その2)

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金剛たち3人は、この倭の国(日本)の難波の地(今の大阪)に、五重の塔を建てようと話し合い設計を開始しました。
「どうやら、この倭の国は地震が多いらしい。巨大な地震が起きても倒れないようなお釈迦様のお骨の埋まった宝の塔を作ろうではないか!我らの知恵と技術を結集して!平和を願う太子の為に!」
こうして、五重塔は組み立てられていきました。
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 それからおよそ15年が経ちました。
 593年、この五重塔の建つ場所は、聖徳太子が[四天王寺]と名付け完成しました。
 太子は言われました。
「ようやって下さった。金剛殿を中心とされた3人の宮大工の方々。おおそうだ。これから、そなた達を「チーム金剛・・いや『金剛組』と呼ぼう!
これからもこの倭の国に残って、多くのお寺を作ってくだされ。」と。
 これが、会社組織「金剛組」の始まりでした。
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金剛たち宮大工が作った四天王寺は、当時なにわの海(現大阪湾)に面した場所にありました。
 ですので、朝鮮半島、東アジア諸国の船団との交易の窓口、つまり玄関口にこのお寺は築かれたのです。
 海外から来られた外交官や商人達は、都へ向かう途中このお寺の五重塔を見て、さぞや日本という国の文化の高さに驚かれたでしょう。つづく

紙芝居:『金剛重光と宮大工「金剛組」』(その1)

(はじめに~)・・私が住んでいる『観念寺』という寺は、立て直す前は宮大工『金剛組(こんごうぐみ)』にお世話になって建ったらしい・・。
 これは、うちのお寺にたまに来られる金剛組の営業マンの御方から聞いた話である。(昔の資料がうちの寺には残っていないが、金剛組には残っているということだ。)
 まぁそれで、その営業の御方といろいろとお話をする中で、僕はその『金剛組』そのものに興味を持った。
‥それは[日本最古の会社]とか[聖徳太子のラブコールで、百済の国から建築士が招かれて、日本で初めて五重塔を作った]とか、いろいろ興味深いお話を一杯聞かせて頂いたのだ。
 それで、この『金剛組』という宮大工の歴史物語を作ることにした。
 ただし、現にこの会社は今も活躍されているので、プライバシーは考慮して(金剛組社員さんに一度見てもらい、フィクションを交え)作らせて頂いた。
 それでは、はじまります。みて下さい。
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昔々の大昔、今から1400年も前に、世界で初めての会社がここ日本で生まれました。
 それは宮大工の組織『金剛組』という会社です。
 その世界最古の企業「金剛組」は、現在もお寺や神社の建築会社として活動されています。
 それでは『金剛重光(しげみつ)』という宮大工から始まり、現在も続く「金剛組」の歴史を紙芝居で見てみましょう。はじまり、はじまりー。
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 若き日の聖徳太子は悩んでいました。
「ああ、わが国にお釈迦様のお骨を祀る高い塔を建てたい・・。
 その塔があれば、人びとはお釈迦様の偉大さを見て思い、争いを止め平和を願うだろう。
・・しかし、わが国にはそのような高い塔を建てられるような建築士がいない。‥そうだ!海の向こうの国からそのような建築士を招こう!」(笑っちゃうけど、歴史的にはこの時、聖徳太子はわずか4歳という事でした。・・ちなみにサザエさんの子・タラちゃんは3才だそうです。「ばぶー」とは言わんか。あれはいくらちゃんか(笑))
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 こうして聖徳太子の命を受け、578年、海の彼方[百済(くだら)]の国(現に朝鮮半島)から、[金剛(こんごう]、[早水(はやみ)]、[永路(ながみち)]の三人の建築士が招かれました。
太子は言われました。(以後、タラちゃんの声で)
「そなたたち、遠路はるばるよう来てくれたですー。そなたたちには、わが国らしい美しいお釈迦さまのお骨を祀る[宝の塔]を作ってもらいたいんですー。頼みますですー。困ったことがあったら、かつお兄ちゃん?違う違う、我が叔父[蘇我馬子]兄ちゃんの智慧を借りて決めてくださいですー。」と。
「はいー、わかりました。ばぶー」といくらちゃんが乗り移り、3人の宮大工は答えました。(次回からまじめにいきます)
つづく

紙芝居:『御文章(ごぶんしょう)聖人一流(しょうにんいちりゅう)の章』(後編)

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その上で称える『南無阿弥陀仏』というお念仏は、御恩報尽(ごおんほうじん)の念仏という・・、阿弥陀如来様にただただ感謝する念仏なのじゃ。
・・どうかな、わかったかな。
 あぁなんと、もったいない事、もったいない事。』
 と、ここで蓮如さまは筆をおかれました。
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 そしてこれは『御文章 聖人一流の章』という、お手紙の一つになったのです。
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 そして今も大切に、80通あるお手紙と一緒に、お寺の『御文章箱』の中に納められていて、ご法事やご法要などの最後に、僧侶によって拝読されているのです。 
 おしまい

紙芝居:『御文章(ごぶんしょう)聖人一流(しょうにんいちりゅう)の章』(前編)

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『聖人一流の御勧化(ごかんけ)のおもむきは 信心をもって、ほんとせられ候・・・。』
 ・・で始まる、これは浄土真宗八代目門主、蓮如(れんにょ)上人のお手紙『御文章(ごぶんしょう)』の一節です。
 これを『聖人一流(しょうにんいちりゅう)の章』といいます。
 さて、今回はこのお手紙を(我流)紙芝居にして見て頂きましょう。はじまり、はじまりー
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 昔々の室町時代。
 蓮如さまは、その昔浄土真宗を開かれた、親鸞(しんらん)様のみ教えをわかりやすくお手紙にして、ご門徒たちに[手紙型.説法]にして、出しておられました。
 「うーん、よしっ!今日はご門徒たちに、浄土真宗で一番大切な教えである『信心』について書いてみよう・・。」と、蓮如さまは筆を取られました。
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 『ご門徒の皆さまへ
 まず初めに・・
 聖人・・、つまり親鸞様の事じゃな。
親鸞様の一流のご勧化のおもむきは・・、つまりこれは浄土真宗の流派で、もっとも私たちに伝えたかった教えの要(かなめ)は『信心』についてと、いうことなのじゃ。』
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 そのゆえは・・つまり、その理由は・・、もろもろの雑行(ぞうぎょう)・・、これは、いろいろな自分で出来る修行を一切止めるという事。
 そして一心にただひたすらに、阿弥陀如来という仏様を心にとどめ・・、つまり一心に仏さまにお任せするんじゃな・・、すると、
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 不可思議な願力・・、つまり考えられないほどの仏様のすっごいお力で、
 仏様の方から、我々を極楽浄土という世界へ連れて行ってくださる事を、お約束して下さるのじゃ。
 その位(くらい)を・・、つまりその境地は、次の世で必ず仏様の仲間入りが決まった素晴らしいことなのじゃ。
 これを難しい言葉でいうと『正定ジュの位』に入るというのじゃ。』 つづく

紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その5最終回)

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・・が、これだけこじれた状況に、なったのですから、中々うまくはいきません、
 やがて、自分を誘ってくれた友人[細川]氏も亡くなり、北の朝廷の中で、正儀は孤立してゆきました。
 今、五十才をはるかに越えた正儀は、戦いに疲れ人間関係に疲れ、精神的にも疲れ果て、故郷恋しの気持ちを押さえる事ができなくなっておりました。
 そしてその気持ちが高じて・・、
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 またもや正儀は、北の朝廷を裏切り、故郷の南の朝廷の元に帰ったのでした。
 この帰って来た正儀を再び迎えてくれた故郷の環境、そして人々の想いはどんなだったでしょうか?
 その様子は何一つ伝わっていません。
 そして不思議な事に、帰還して間もなく、正儀の歴史の記録がここで消えてしまうのです。
 一節には「正儀はこの後すぐ戦死した」とか、「自害した」とか言われていますが、はっきりとはわかりません。
 それから、正儀が亡くなってまもなく、足利幕府の三代将軍[足利義満]により、北と南の朝廷は和睦して統一へと向かいました。南北朝時代の終結です。
 皮肉な事に、正儀の死と共に平和な時代が来た事になりました。
 正儀の死とは関係無く・・。
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 この南北朝時代の動乱の始まりから終わりまで、およそ60年の歳月が経っておりました。
 楠木正成から始まり、その子正行、正儀まで、楠木一族の攻防の歴史は、これにて終わりを告げます。
 後世の一部の人は言います。
「それにしても、父や兄とは違って、楠木正儀という武将はなんという優柔不断な男だったのだ・・」と。
・・が、本当のところはどうだったのでしょうか?
 それは永遠にわかりません。
 が、ヘッドハンティングや転職が当たり前の時代の21世紀の現代人なら、きっと理解されると思われます。
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(金剛山 楠木正儀の墓か?)
おしまいつ

紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その4)

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・・がしかし、その楠木正儀(南の朝廷)と細川(北の朝廷)との秘密の相談が、味方に露見してしまいました。
「楠木正儀が、北の朝廷と秘密理に連絡を取りあっているらしいぞ!・・あやつ、寝返るつもりか!?」と、噂が立ったのです。
 それを聞いて正儀は「ちっ違う!誤解だ!私は皆が仲良く暮らせる方法を探っているのだ!」と賢明に味方に訴えました。
が、誰にも理解されず、益々彼は孤立していきました。
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 その内、正儀を信頼してくださっていた天皇も亡くなり、新たな天皇や楠木一族にも疑われるようになりました。
 「そんなに孤立されているなら、いっそ、北の朝廷側に来ないか。そなたの器量なら北の朝廷は大事にするぞ」という細川からの誘いもあり、(これって今のヘッドハンティングやなぁ・・知らんけど) 正儀は結果的に、身近な家来だけを連れて北の朝廷側に駆け込んだのでした。
 そう、正儀は味方を裏切ることになりました。
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 北の朝廷のリーダー細川氏は喜びました。
「正儀殿、よくぞおいでくださった。さぞやお辛いご決断でありましたでしょう。」と大変感謝して、正儀を北の軍の重要ポストにつけて、暖かく迎えてくれました。
 正儀は裏切り者のレッテルを貼られながらも、ここでも南北の朝廷統一に向けて、賢明に働きました。つづく
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(金剛山:千早城跡)

紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その3)

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 それからも、北と南の二つの朝廷の争いは続きました。
 正儀は、武家のリーダーとして、戦さの場で懸命に働きました。
 そして何度も勝つ、負けるを経て、ついに京の都を奪い返したのでした。
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 がしかし、念願の京の都に戻れた(正儀等の)南の公家たちは、浮かれて油断しました。
 そのすきを見つけた北の朝廷の軍たちは、京の都へ襲い掛かり、その結果またまた、正儀たちは戦さに負けて、河内へと引きあげたのでした。
 このようなことが、結果的に合計四度もありました。
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 疲れ果てた正儀は思いました。
「京の都を制圧しても、逃げた敵は又盛り返して帰って来る。・・そして又奪い返される。こんなことの繰り返しでいつまでも平和は来ない!
・・うーん、それよりも平和的に、北と南のそれぞれの天皇が一代ずつ交代しながら、この国を治めるという考えではどうなのだろうか⁉」と。
 ちょうどその頃、北の朝廷内でも(正儀と)同じ考えを持つ[細川]氏という武将が居るという事を知った正儀は、すぐに秘密裏に手紙を書きました。
 そして、やがてお互い意気投合した正儀と細川は、極秘に和平の道を模索し始めたのでした。つづく
 
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(富田林:嶽山(だけやま)城跡[現在のかんぽの宿])
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(河内の楠木正儀の城と云われている)

紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その2)

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 その楠木一家に大きな転機が訪れます。
 それは、まず父楠木正成の[湊川合戦]での戦死。
 そして月日は流れ、長男・次男の戦死する[四條畷合戦]です。
 その四條畷合戦の前、長男正行(まさつら)は、正儀に言いました。
「正儀、お前は故郷河内(かわち)に残れ。
 後の事はお前に任す。・・おそらく俺たちは父のように戦さで死ぬだろう。
 お前は知恵者だ。その冷静な頭脳で楠木一族を守ってくれ。
 頼んだそ!」
と言って戦場で次男と共に戦死しました。
 こうして正儀は、わずか20歳の若さで楠木一族の頭領となったのでした。
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 正儀はお寺で亡き父や兄たちに呟きました。
「父上、兄上、どうしてあのような負けるとわかってる戦さで、命を落とさねばならなかったのですか?!
 無駄死にでは無いのですか⁈
 公家たちからの命令だったからですか?
 彼らはいつも命令するだけ・・。
 戦って血を流すのはいつも武士だけ。
 そしていつも万民は迷惑を被る。
 あぁ、私は命令されるだけではなく、正しく自分で考えて和平の道を選びたい。
・・しかし私は武士の頭領。命令どおりに戦い続けるしか無いのでしょうか?」と呟いたのでした。
 正儀の苦悩のはじまりでした。つづく
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(富田林:正儀の母(久子さま)の住居跡[観音寺内])
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(楠母神社:正儀等三人の子と母の像)

紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その1)

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 昔々の南北朝時代のお話。
 これは[楠木正成(まさしげ)]の三男[楠木正儀(くすのきまさのり)のお話。
 この正儀(まさのり)は、長男の熱血漢[楠木正行(まさつら)]とは違って、物静かで思慮深い三男坊でした。
 だからと言って、決して彼は臆病者ではありません。
 彼はやはり父親[正成]の血を受け継いで、優しさや勇気を十二分に備えておりました。
 がしかし、その思慮深い性格が、彼を悲劇へと向わせます。
 ・・さてこのお話は、父・楠木正成の熱い血を受け継ぎながらも、平和主義ゆえに歴史に揉まれ、結果的に『裏切り者』『臆病者』と呼ばれた一人の武将の物語です。
 はじまり、はじまり~ 
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 楠木正儀は、正成の長男や次男の兄弟とは違って、一人読書に夢中になる少年でした。
 兄たちは「おのれー朝敵め!おれがいつかやっつけてやる!」と毎日剣術に汗を流していました。
 が正儀は「私は平和というのは、チカラでねじ伏せて勝ち取るものではないと思う。お互いが話し合い、譲り合ってこそ平和は訪れるものだと思うんだ・・」と思っていました。つづく
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(金剛山:楠木正儀の墓)

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