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東本願寺伏見別院『山城才三組門徒会』への出前

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(伏見別院)
本日、東本願寺伏見別院へ、『山城才三組門徒会』主催の講演会にお招き頂き、紙芝居法話に行って来ました。
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(伏見別院列座藤本住職と)
雨の中でも、本堂は満堂でした。
嬉しかったです。
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(藤原光馬氏と)
紙芝居法話を聞きに来て下さった、臨済宗の僧、藤原光馬さま。
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(藤原氏に頂いた仏画)
彼に、いただいた素晴らしい仏画です。合掌

紙芝居:「戦争は集団殺人だ!」(その5 最終回)

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やがて、戦争が終わりました。
ようやく、徹誠さんも刑務所から、出る事が出来ました。
がしかし、彼はお寺には帰りませんでした。
いや、お寺も帰れるような状態では無かったのです。
そこで、家族みんなで東京に向かい、そこで、小さな工場を始めたのでした。
又、息子の等さんも、(僧籍を持ちながら)芸能界に入りました。
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徹誠さんは、僧侶は辞めましたが、心はやはり、浄土真宗の親鸞聖人と共にあったようです。
最初に述べたエピソードにかえります。
芸能界入りした、息子の植木等さんに、コミックソング「スーダラ節」を歌うようにと、社長から指示が来ます。
本来、真面目な等さんは、不真面目な歌詞のこの歌を、唄うかどうか迷います。
そして、父の徹誠さんに相談するのです。
すると、歌詞を見た徹誠さんはこう言いました。
「うん、この歌は真理をついている。
[わかっちゃいるけどやめられない]というところは、すべての人間が持つ弱さだ。
その弱さを、そのまま理解して救ってくださるのが、阿弥陀さまという仏様なのだ。まぁ、あちこち、おかしな箇所があるが...、
これは親鸞聖人の生き方そのものだ。
等、是非、歌いなさい!」と。
この一言で、歌う決心をしたそうです。
そして、「スーダラ節」は、大ヒットしました。
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その後の徹誠さんの晩年は、お孫さん達に囲まれて、穏やかに過ごされました。
そして昭和53年、82才で病に倒られます。
病床の中、こう言われたそうです。
「俺はあの世で、親鸞聖人に合わせる顔が無い。ああ、恥ずかしい。」と。
そして最後の言葉は、「ありがとう。おかげで楽しい人生を送らせてもらった。」で、あったそうです。
おしまい

紙芝居:「戦争は集団殺人だ!」(その4)

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徹誠(てつじょう)さんは、侵略国家へと進んでいく日本国家に対しても、「異議あり!」と唱えました。
彼は戦時中、戦地に向かう出征兵士や檀家さんに対して(その場に警察官がいても)、堂々とこう言いました。
「いいか、君たち。戦争というものは、集団殺人行為なのだ!
君たちは、それに加担させられる事になった訳だから、なるべく、戦地ではタマの飛んで来ないところに居てなさい。
そして、なるべく相手もころすな!
それから、絶対に死んじゃあ駄目だぞ!生きて帰って来い!」と発言したそうです。
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国は、そのような事を言う徹誠さんを見逃すはずがありません。
[治安維持法]違反という、法律をかざして、彼を逮捕しました。
そして、何度も拷問に掛けられたそうです。
が、釈放されたら、又すぐに「いいか、君達、戦争というものは集団殺人だ!」と人前で話すものですから、その都度、彼は逮捕されたそうです。
彼はブレませんでした。又、彼の精神力は、強靭でした。
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仏説無量寿経というお経の中に[兵ガ無用(ひょうがむよう)]という言葉があります。
これは、「仏の国に、兵士や武器など必要ありません。」という意味です。
徹誠師は、この言葉を実践しようとしたのです。つづく

紙芝居:「戦争は集団殺人だ!」(その3)

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昭和4年。
徹誠さんは、34才で得度して、僧侶になりました。
そして翌年、空き寺に入り、住職になりました。
この頃、徹誠さんは身を持って、根強く存在する部落差別の現状を、目の当たりにするのでした。
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そして、自ら差別の激しかった地域のお寺移り、差別撤廃運動の指導者になったのでした。
こちらのお寺に移った時、徹誠さんは檀家の人達に、こう言っています。
「私の仕事は、死んだ人を供養するだけではなく、生きている人々の良き相談者になることです。」と。
そして、不平等と戦いました。
おそらく、[仏の下では、すべての生命は平等である]という、仏教思想が、彼を動かしたのでしょう。つづく

紙芝居:「戦争は集団殺人だ!」(その2)

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 植木徹誠(うえき・てつじょう)師。
 本名、植木徹之助さんは、明治28年、三重県の回船材木商の次男に生まれました。
 彼は学校を卒業してから、親戚である『ミキモト真珠店』東京工場に就職します。
 そこで働きながら、キリスト教や労働運動、そして社会主義などから様々な影響を受け成長していきます。
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大正12年、その東京で、彼は関東大震災に遭遇します。
その結果、工場は閉鎖。
彼は解雇されます。
それで、妻の実家であった三重県の浄土真宗のお寺に避難します。
そこで、次第に仏門に帰依する心になっていったのです。
つづく

紙芝居:「戦争は集団殺人だ!」(その1)

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 世間を一世風靡させた曲、「わかっちゃいるけどやめられない」のフレーズが、有名な『スーダラ節』。
 この歌を唄った『クレージーキャッツ』のボーカルは、植木等さんでした。
 では、本来まじめな植木さんが、不真面目なこの曲を歌うかどうか迷った時に、「この歌は、人間の弱さを言い当てている。親鸞聖人の教えに通じるから、是非唄いなさい。」と助言したのが、植木等さんの父の『植木徹誠(てつじょう)』さんだって、皆さんは知っていましたか?
 この方は、浄土真宗大谷派の僧侶でした。(ちなみに植木等さんも僧籍を持っておられました)
 破天荒な人生を送られた徹誠さんでしたが、『戦争は集団殺人だ!』と、終生叫ばれた反戦僧侶でもありました。
 これは、波乱万丈な徹誠さんの一生のお話です。
 はじまり、はじまりー。つづく

平成30年度:観念寺永代経法要

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 一昨日、観念寺永代経法要を開いた。
 本堂でお勤めが終われば・・、
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 一階ホールで、今年は記念コンサート。
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 今年は、フォレスト(森)とアコースティック(生楽器)をこよなく愛する二つの音色(篠笛とピアノ)の出逢いから生まれたユニット、『フォレスティックス』様をお招きして、約一時間のオリジナル曲を生演奏して頂いた。
 皆さん、凄い迫力の演奏に身体が震えたと言って居られました。(感動に、涙流された方がたくさん居られましたよ!)
 一年間、お待ちして本当に良かったです。
 有難うございました。合掌
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(娘夫婦たちと記念撮影)

岸和田の昔話『夜泣き石』、制作開始!

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 先日、お話に行かせて頂いた岸和田市の[慈光寺]様の門前に建つ(人の背丈ほどの)『夜泣き石』。
 「この石には、少し悲しい逸話があるのです。」と、住職さんにお聞きして、その話に感動した僕は、早速その話を「紙芝居」化、し始めた。
 ・・大作では無いが、紙芝居の原点となるようなお話です。
 完成したら、発表します!

今月の[寺カフェ]!

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 昨日は、月一回の『寺カフェ』の日。
 たくさんの準レギュラーのお客さんが来てくださいました。
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 中には、ご年配の御方で、バスを乗り継いで来て下さった方の(汗びっしょりの玄関口)登場姿に、皆びっくりしました。
 有難うございました。合掌

岸和田市:慈光寺さまの永代経法要

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 昨日、岸和田の慈光寺様にお招き頂いて、紙芝居法話に行って来た。
お昼と夜の二座の法座で、久々に体力的に疲れた。
しかし、あたたかい御門徒さん方で、楽しくお話しできたと思う。
大雨警報発令の中、慈光寺のみなさん、ようこそのお参りでした。ありがとうございました。合掌