それから青洲は、仕事の合間を見つけては、(結婚した)[加恵(かえ)]と一緒に、麻酔薬の原料となる『マンダラケ(朝鮮朝顔)』という花を野山から摘みました。
そして、それを主成分として、さらに改良し[全身麻酔薬]をついに完成させたのでした。
その後、青洲はその麻酔薬を使って、犬や猫などで動物実験をして成功させました。
‥が、問題はそれが実際に人間に通用するか?どうかです。
この人命に関わる麻酔薬の効き目に青洲は悩みました。
そんな青洲の気持ちを察してか、「私たちにその薬を試してください。」と言い出したのが、母と妻でした。
その言葉にためらう青洲でしたが、母は言いました。
「青洲、私はおい先短い身です。まず私に試して下さい。」と、青洲を熱心に説得しました。
そしてまず、毒性の弱い薬を母は飲みました。
やがて母は元気になると、今度は妻の加恵が「私は医者の妻です。私も覚悟はできてます。」と、若い妻は強い麻酔薬を飲み試しました。
妻は死んだように眠り続け、つねっても叩いても目を覚ましませんでした。
麻酔薬の成功です。
そして二、三日後、無事に目を覚しました。
その後、二人は青洲が新しく薬を調合する度に、何度も何度も麻酔薬を、飲み続けました。
それはまるで、嫁と姑が競うかのように・・・。
まさに、一人の男をめぐる嫁と姑の愛の戦いのようでした。
‥少し余談になるが、僕が何故?この青洲さんの紙芝居を作ろうかと思ったその訳は、僕自身の体験が少し関係している。
僕は今年、心臓弁膜症の手術を受けた。
その手術前に[麻酔科]の先生の診察を受けた。麻酔科の先生の診察を受けないと手術できないのだそうだ。それは初めての経験だったが、その時、初めて「麻酔薬は有難いものだ」と思った。だってメスで切っても痛みを感じないのだから・・。
そして、麻酔薬って何か?誰がどのように開発したのか知りたくなった。これが青洲さんの紙芝居を作ろうとした動機である。
又、去年、富田林市のお寺でお話する機会があり、そこで偶然、(中野町の)華岡家のご先祖さんのお話を聞く機会があり、青洲さんとの不思議なご縁を感じ、紙芝居を制作しようと思いたったのである。
つづく
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紙芝居:『華岡青洲物語』(その3)
紙芝居:『華岡青洲物語』(その2)
華岡青洲の少年時代(雲平[うんぺい]と言います)のエピソードを一つ紹介します。
ある日、雲平は田んぼの畦道で大金の入ったサイフを拾います。
雲平は『きっと落とし主が探しにやって来るだろう』と、その場で夕方まで待っています。
やがて、その落とし主が必死の形相で現れたので、「おじさん、どうしたの?」と、雲平はまず聞いて、訳を聞くと、まずサイフの形や中身の金額を聞き、間違いないと思ったのでその場でサイフを渡し、何も言わず帰ったそうです。
「帰りが遅い!」と心配していた父は、息子にその訳を聞き、『こいつは立派な者になるに違いない!」と大層喜んだそうです。
が、それを後で聞いた村の人達は「馬鹿正直な奴」と影で噂したそうです。
やがて大きくなった青洲は、「医学修行の為に京都に行きたい!」と言い出します。
が、貧乏な華岡家はお金がありません。
そこで金策の為、母や妹達は織り物をしてお金を作り学費にします。
青洲はそんな家族に手を合わせて涙して感謝し、医学修行を励みます。
こうして彼は家族の期待を背負い、西洋医学(主に外科)を懸命に学ぶのでした。
やがて京都で三年の医学修行を終えて、青洲は評判の良い医者になり、和歌山に帰って来ます。
が、そこで待っていたのは悲しい現実でした。
兄の為と織り物をし、懸命に働いた妹の一人が乳がんになって倒れてしまうのです。
「兄さん、外科の手術で私を助けて!」と妹は頼みますが、まだ手術の為の麻酔薬がありません。
麻酔薬が無ければあまりの痛さの為に手術はできません。
そして妹は手術ができずに亡くなってしまいました。
青洲は泣きながら、「悪い所は切り取れば治る。が、その為には麻酔薬がいる。‥私は何としても麻酔薬を開発する!」と固く誓うのでした。
(自宅内は記念館になっている)
(記念館内の機織り機)
つづく
紙芝居:『華岡青洲(はなおかせいしゅう)物語』(その1)
昔むかしのお話。
江戸時代の紀州、和歌山。
このお話はこの地で、世界で初めて麻酔薬を使って手術をして、多くの患者の命を救ったお医者さん『華岡青洲』とその家族のお話です。
さて、まずは『華岡家』のご先祖様(ルーツ)のお話から・・。
華岡家は、ずうっと昔から和歌山で暮らしていたのではありません。
その昔、華岡家の先祖は大阪は『富田林』は(中野村)という所で暮らしていました。
この家は、河内の国、楠木正成という武将の一族だったのです。
・・がしかし、戦さで楠木家も滅び、一族で和歌山へと引っ越したのです。
そこで、この先祖はお医者さんを始めました。
この物語の主人公、華岡青洲はその子孫なのでした。
和歌山の(平山、今の紀州市)で、医院を開業した華岡家でしたが、田舎の医院でもあり、華岡家は家族も多く大変貧乏でした。
医者の父と母、そして長男の青洲(子供の頃は雲平と呼ばれていました).、そして妹たちや弟などの大家族でした。
(和歌山県・華岡青洲宅・春林軒)
つづく
親鸞聖人ゆかりの地、茨城県に行って来ました
親鸞聖人ゆかりの地、茨城県に行って来ました。
新幹線で東京へ、そこから特急列車で水戸駅へ。
大洗ホテルで一泊しました。
目的は、親鸞聖人が油の乗りきった40代から60代まで居られた茨城県の笠間市(稲田御坊)です。
立派で風情のある稲田御坊。お寺の方にお庭の銀杏をお土産に頂きました。
そしてタクシーを飛ばして、コロナで断念していたもう一つの目的地、山伏(弁円)のゆかり寺『大覚寺』へ。
(弁円像*ご住職の許可をもらって写真を撮りました)
山伏弁円(べんねん)は、念仏布教をやめさせようと親鸞聖人の命を狙いますが、逆にお聖人に感化され弟子になり、こちらを浄土真宗のお寺にします。
僕は3年ほど前に、現地取材もせずに「弁円」の紙芝居(182作目)を描いたので、悔いが残っていました。今回ようやく悲願が達成しました。弁円さんの木像にお参りさせて頂きました。
ご住職さま、貴重な像や資料を見せて頂き有難うございました。合掌
第15回『竹内街道灯路祭り』in光福寺様・中山久蔵翁をしのぶ集い
(ライトアップされた光福寺様)
大阪府太子町で、10月21日の夕方から夜にかけて、『竹内街道灯路祭り』が行われた。
その中のイベントの一つとして、浄土真宗光福寺様で、「寒冷稲作の祖・中山久蔵をしのぶ集い」があり、僕はその『中山久蔵さんの生涯』と『聖徳太子』の紙芝居をさせて頂いた。
(中山久蔵さんの紙芝居)
(聖徳太子の紙芝居)
(赤毛米の試食会)
イベントは、光福寺の津田住職のご挨拶から始まり、太子町教育委員会の方の解説、そして僕は最後、紙芝居の披露で内容は進んだ。
そして、最後は北海道・赤毛米の試食があり、盛り沢山の内容であった。
楽しいイベントでした。光福寺さま、関係各位の皆様、お世話になりました。ありがとうございました。合掌
令和5年・観念寺報恩講法要
『竹内街道・灯路祭り』への出前紙芝居
富田林光盛寺様の報恩講法要
本日、富田林光盛寺様の報恩講法要にお招き頂き、紙芝居法話をさせて頂いた。
富田林市内のお寺の報恩講法要への出講は、久々で緊張した。
又、約1時間半のお話時間は、体力知力が持つかなとも思ったが、なんとかいけた‥かなと思う。
でも報恩講なので[親鸞聖人]に関わるお固い紙芝居ばっかりで、もう少し面白い説話を入れてもよかったのではないか?‥と思った。‥が今回は、直球真面目勝負で紙芝居をさせていただきました。
紙芝居は『親鸞様がゆく〜お聖人の御一生』、『北御堂ものがたり』、『正信念仏偈の話』、『白骨の章の話』の4本でした。
御門徒の皆様、肩凝りませんでしたか?すんませんでした。合掌
記念の220作目紙芝居は『大阪・北御堂ものがたり』
(作成中)
現在、記念の220作目の紙芝居を作っている。
題名は『大阪・北御堂ものがたり(仮題)』と名付けた。
ストーリーは‥、大阪の天満にあった本願寺が、豊臣秀吉の命令によって京都への強制引越し。‥後に残った場所に大阪商人達の力によって『北御堂(津村別院)』が建てられ、繁栄と火災、空襲などを経て、現代に至るまでを描いた作品(133作『石山合戦始末記』の続編)にしようと思っている。
大作になると思っているので、少々完成までお時間を頂きます。合掌
本日、宗教新聞『中外日報」に掲載されました。
本日、宗教新聞『中外日報』に、先日の[郷土の人々紙芝居公演会]の模様が掲載されました。
‥ちょっと文面を読んで見ますね。
「‥今年2月に心臓弁膜症の手術を受けた宮本住職だが、紙芝居歴25年間で培った聴衆の心をつかむユーモラスな語り口は健全で、多くの来場者を楽しませた。
紙芝居の公演は旧河澄家の当主と親交のあった上田秋成関連史料の展示会(9月24日まで)に合わせて行われたもので、住職は秋成の生涯や『雨月物語』の一遍「夢応の鯉魚」などを題材とした紙芝居を披露。時折、漫才コンビ・ミルクボーイのネタをパロディ化したセリフを織り交ぜたり、紙芝居に関連した曲を流したりするなど聴衆を飽きさせない工夫をちりばめ、会場からは拍手や笑いが起こっていた。‥」
こんな感じで、写真付きでいっぱい公演模様を掲載してくださいました。
ありがとうございました。合掌