住職のつぼやき[管理用]

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筋ジストロフィー青年との会話記録 その9

 そろそろこの《会話記録》も終わりに差し掛かっている。
 この記録をまとめるのは本当にしんどい。
 出来ることなら早く終りたいと思っているのだが、このT病院への『お寺の出前』が、(まだ当時、こう称してはいなかったが・・)今の僕にとって、非常に貴重な(色々な所へ、こちらから出向いて行こうと決心する)体験となっているような気がするので、この際キッチリまとめて置きたいと思っているのである。

平成10年1月13日の記録
 今日、病室に入ったらN君が、僕に「『ミニコミ誌』に僕の《詩》の連載が決まりました」と嬉しそうに語ってくれた。
 そして、その第一回目の《詩》が載った冊子を見せてくれた。
 僕はその『Mっちゃんコーナー』と書かれた冊子の中身を読んで、少し驚いた。そして「なんか重々しい内容の詩やね。・・《死》について、正面から取り上げて作ってるやんか」と言った。
 彼は「そら、僕も成長しますよ。23歳になりましたからねぇ」と答えた。そして「・・でもその冊子の中で、僕の《詩》は浮いてませんかねぇ?」と付け加えて言ったので、「いいや、むしろ重厚になってるでぇ」と笑って答えた。
 
平成10年4月15日の記録
 病室に入った僕の顔を見るなりN君は、「僕この前まで、神経性胃炎で又、個室に移されとったんです。もう大丈夫やけど・・。原因はストレスですわ」と言った。
 僕は「何かあったんか?」と聞いたら、「おそらく、外に長いこと出てないから、それが原因やと思うのですけど」と答えた。
 「宮本さん、例のあの個室ですよ。あそこは嫌ですよ。テレビも無いし、寂しいし。・・今年は気管の手術をしてから、調子良かったんですけどねぇ」と彼は言い、そして
「僕、手術して良かったと思ってるんですよ。・・だって兄ちゃんは、この手術ができなくて死んだんですから。兄が死んでから四ヶ月後に、この病院で、この手術ができるようになったんですよ。兄ちゃんと同じ原因で死ぬのは嫌じゃないですか。・・その時、兄ちゃんは13歳で、僕は10歳でした。・・だから僕は手術する決心をしたんですよ。同じ病室でこの手術を嫌がって死んだ子も見てるしねぇ。・・でも、僕ももうだいぶと兄より長く生きたなぁ。」と言った。
 僕とN君との付き合いは、そう長いものではない。
 しかし、何回かの〔春夏秋冬〕を経た回数の訪問があったからこそ、このような話を彼はしてくれたに違いない。
 改めて、継続は大事だなぁと思った。
 
 ・・が、皮肉なことに、この日が僕の〔T病院〕の最後の訪問日となってしまった。 つづく
 
 
 

筋ジストロフィー青年との会話記録 その8

 僕がなぜ、この頃、頻繁にT病院に行けたかというと、病院近くに檀家さん宅が一件あり、一ヶ月に一回、そこのお宅にお参りさせて頂いた帰りに、病院に寄らせて頂けたからなのだ。
 たいてい訪問時間は、午後の3時ぐらいからで、一回行くと2~3時間は病院に居たと思う。時には1時間以上、病院駐車場でN君のお母さんから、色々な悩みを聞かせて頂いた。

平成9年5月15日の記録
 今日は二つの話題について話した。
 一つは〔西行法師と詩〕について。
 もう一つは〔ピラミッドと病院〕についてである。
 N君は、「自分は〔西行法師〕に似ている」といった。
 それは、「〔西行法師〕は身近の人の《死》を縁として、出家し旅に出て《歌》を作る様になった。自分も幼い頃、兄の《死》に接した事によって《詩》を作り始めたからなのだ」と言った。
 そして「〔西行法師〕も、色んな人の出会いや自然の移り変わりを通して、研ぎ澄まされた《歌》を読んだ。僕もそう有りたいと思う」と続けた。

 そして、〔病院内での自分の悩みについて〕話題は移った。
 お見舞いに来る親同士の感情のトラブル。看護師さんも〔月日〕が経つと、言葉遣いや態度も変わってしまうという話などをしてくれた。
 N君は「僕等はお世話になっている手前、(医療者に対して)何も言えないのです。・・患者あっての病院だと思うのですが、言うのを遠慮してしまう。・・僕等は《ピラミッド》の頂上に居らねばならないと思うのですが、《ピラミッド》が逆さまになっていて、僕等は一番下にいるように感じるのです。・・目の悪い人の嗅覚や聴覚が優れているように、動けない僕等は人の心の中、たとえばドクターや看護師さん達の心の中の変化が、すぐに判ってしまうのですよね」と悲しそうに話してくれた。
 今日はそんな話をした。つづく
 

筋ジストロフィー青年との会話記録 その7

 このブログに書いている《記録》は編集したもので、本当はもっと長い。
 しかも、このタイトルが《青年〔N君〕との会話記録》になっている為、《カット》しているが、実は、N君だけではなく、もう一人〔Sさん〕という、同じ病気を持つおばさんとも仲良くなって毎回、N君との会話が終ったら、Sさんのお部屋にお邪魔してお喋りしている。そして、その会話を記録している。
 年頃の男の子を持つ女性〔Sさん〕の闘病生活とその苦悩も壮絶なものなのだが、テーマから反れてしまう為、やはり書かないことにする。・・いつか又、ひょっとすると発表するかもしれない、・・としておこう。
 
平成9年3月13日の記録
 2月は忙しくて病院へは行けなかった。
 今日のN君は一生懸命に『日本史』の《坂本竜馬》のことについて(彼は歴史が好きなのだ)喋ってくれるのだが、唾液が飲み込め無い為、バキュームで唾液を吸いながらの会話となり、なかなか話が進まなかった。
 今日は僕が、バキュームを口に入れる役をしたし、いつもなら看護師さんに、「頭を右に向けて」とか「手を上にして」とか頼むのだが、今日はそれを僕に頼んだ。微妙な位置の変化、移動は難しかったが、僕に頼んでくれたことは凄くうれしかった。
つづく


 

筋ジストロフィー青年との会話記録 その6

 〔病気よ、お前のおかげで わからない何かを 手に入れることができたよ・・〕 これは(28才で亡くなった)N君の『詩』の一つである。

平成8年10月14日の記録
 N君の体調が悪く、面会ができないと聞いていたのだが、O先生から「彼が是非、僕に会いたいと言っている。何か話したいことがあるらしい」と連絡を受け、T病院に向かう。
 彼はまだ個室にいる。・・が、顔色はだいぶ良いみたい。
 僕を見るなり「あっ」と喜んでくれた。・・が、「何か話したいことがあるの?」と聞いたら、「忘れてしまった」ということで、がっかり。
 それより、(彼が欠席した)先々月の『詩の朗読会』の様子を聞きたがっていたので、「みんな、君の詩に感動してたみたいやったで」と言ったら、行けなかった事を本当に残念がっていた。
 「それより、今日は僕の作った『月の神様になったうさぎ』という『紙芝居』を持って来たんやで。見てくれるか?」と言ったら、
「物語の好きな僕の後輩が大部屋に居るから、一緒に見ても良いですか?」と聞いてきたので、OKして、その(小1ぐらいの)後輩を部屋に呼んで来て、一緒に見てもらった。
 『紙芝居』終了後、その後輩の子は「僕も(うさぎのような)神様になるねん。神様になるねん」と繰り返し感想を言ってくれた。
 N君は「悲しい話やけど、優しい気持ちになれた。・・宮本さん、今度『宮沢賢治』の生涯の紙芝居を作って、ここで見せてくれませんか?」と言った。
 「わかった。いつかな・・」と言って今日は別れた。
 
平成9年1月15日の記録
 今年初めての訪問。N君は6人部屋に移っていた。
 場所は扉側に変わっていたが、前にここに居た小1の子はどうなったのだろう?・・聞けなかった。
 N君の顔色は良いようだ。
 お母さんもしばらくすると来られて、「Mっちゃん、ジュース飲むか?」と言って、ベットの上にぶら下っているガラス瓶に缶ジュースを入れ、チューブで彼の口に流し込み、味を楽しんだ後、もう一本のバキュームのチューブで、吸い取っていった。(もう、喉の器官が塞がっていて飲めないのだ)これは見た者しか解らぬ壮絶な光景だ。彼はこうして、喉の渇きを潤すのだ。
 「N君、食べることができるなら、今何が食べたい?」と聞いたら、「ケンタッキー・フライドチキン」と言った。
 昔、よくお母さんに買ってきてもらって食べたらしい。
 そういえば、彼は料理番組が好きで、よくテレビでそんな番組を見ているなぁ・・。つづく
 
 
 

筋ジストロフィー青年との会話記録 その5

 N君が入院していたT病院は、T療養病院とも呼ばれていた。
 ここは、子供達の為に養護学校(現在は支援学校という)も併設されている。
 僕がN君に会いに行くと、よくクラブ活動を終えた子供達が、隣接するその学校から、車椅子や移動式ベットで部屋に帰ってきて、よく顔を合わせた。その度に挨拶や雑談などもするようになり、やがて顔馴染みにもなっていった。
 彼等はよく口に割り箸を咥え、(手が不自由なので)テレビゲームのボタンを押し操作し遊んだりしていた。ある時、僕が「何のゲームをしてるの?」と聞いたら、「人生ゲーム!」と答えてくれたのを覚えている。

平成8年6月13日の記録
 今日は死亡者が出た飛行機事故のニュースをテレビで見てから、T病院に向かう。
 僕はN君の顔を見て、開口一番、「・・ほんまに一寸先の事はわからんなぁ。君は人間の運命を信じるか?又、死んでも魂ってあると思うか?」と言った。
 彼は笑いながら「その問題は、宮本さんの専門分野じゃないですか」と切り替えし、しばらくして彼は「僕は『宮沢賢治』と一緒で、死んだら宇宙の中の塵のひとつとして吸収されて還っていくと思います」と言った。
 彼の死生観が少し判ったような気がした。

平成8年7月14日の記録
 今日は、N君の体調が思わしくなかった。
 機嫌も悪く、あまり喋らない。
 髪の毛もボサボサでフケが溜まっている。「頭を掻いてあげよか」となかなか言い出せなったので、一緒にテレビを見る。
 突然、外でカラスが鳴いた。彼は、その時ふいに「カラスって損ですよね。鳴き声も汚いし、身なりも良くないし、不吉やと思われてるしなぁ・・」と言った。
 僕は「でも、和歌山の熊野地方ではカラスは〔神さまのお使い〕やと云われてるで」と言った。
 すると彼は「ああ、そうでしたねぇ・・」と力無げに言った。
 この調子では、来月のY文化会館での『詩の朗読会』に出席できるかどうか心配だ。
 帰りの廊下がやけに長く感じた。
 
平成8年8月25日の記録
 今日、Y文化会館でN君の『詩の朗読会』が盛大に行われた。
 ・・が、本人は体調が悪く欠席となり、ビデオでの挨拶となった。画面上での彼は、キレイに散髪して、元気そうに挨拶していたが、回りの治療器が増えていて、又、個室の様だったので、あまり思わしくないのであろう。
 彼はこの『朗読会』に出席するのが、目先の生きる希望だと言っていたのでさぞ残念であろう。
 ・・が、『朗読会』自体は、会場は満席となり大成功だった。ボランティアさんが代わりに朗読し、彼の詩に曲をつけて演奏までしてくれたりして、大いに盛り上がった。
 お客さんは、どんな風に感じたのだろうか?
 願わくば、今日来てくださった人たちが、一人でも良いから、T病院に訪問してみようと思うことを願いつつ、会場を後にした。
 つづく


 

筋ジストロフィー青年との会話記録 その4

 このブログを書くに当たり、今日の朝、久しぶりに故・N君宅に電話を掛けた。
 お母さんが電話に出られたので、「皆さん、お変わりございませんか?」とお聴きすると、「・・実は昨日が夫の四十九日(満中陰)でして・・、」と言われたので、びっくりしてしまった。
 僕はまったく知らなかった!
 死因は〔脳梗塞〕だったそうだ。
 「長男が亡くなり、次男のMっちゃん(=N君)が亡くなり、夫が亡くなり、ついに私は一人ぼっちになってしまいました。これから私も何か生きがいを見つけないと・・」と寂しそうに言われた。
 僕は、N君との思い出話をしばらくお母さんとしながら、不思議なことだと思った。
 ひょっとしたら、このブログを書こうと思ったのは、お浄土からのN君親子の依頼だったのかもしれない・・。

平成8年4月14日の記録
 今日、T病院で初めてN君のお父さんと会う。(お母さんとは、一回目に出逢っている)
 お父さんについては、N君から色々と情報を聞いて知っていた。
 N君は、自分のお父さんがあまり好きではない・・らしい。
 ワンマンな性格で、いつも会えばケンカになるらしく、間に立つお母さんが大変らしい。
 しかし、今日、僕が見るに、結構二人は仲良く喋っていたように思えるが・・。

平成8年5月14日の記録
 今日行くと、お母さんが来ておられ開口一番、僕に「エエ時に来て下さった。Mっちゃん、雨の日が続いて落ち込んでいたんですわ」と言われた。
 M君の病気が、天候に左右されるのかどうかは知らないが、今日は良いタイミングだったらしい。
 いつもと違って彼の方から色々と話掛けてきた。たとえば、「結婚しているのですか?」とか、「子供さんはいますか?」とか、「なぜ、お坊さんになろうと思ったのですか?」などと次々と聞いてきたのだ。
 ひょっとしたら、誰でも良いから、無償にお喋りがしたかったのかもしれない・・。
 そんな問いに答えていたら、担当医の先生が来られ、僕に向かって「あなたは誰ですか?」と聞いてこられた。
 お母さんが、その答えに困り「・・ボランティアさんです」と言ったので、僕は「そんな大層なもんと違うよな。ただの友達やな」と言ったら、N君もすかさず「そうや、友達や」と言ってくれた。
 何気ない会話であったが、友達と認めてくれた様で嬉しかった。
 つづく

 
 
 

筋ジストロフィー青年との会話記録 その3

 故・N君は詩人である。詩集も三冊出版されている。
 尾崎豊と宮沢賢治が好きだったN君・・。
 これは、そんな彼との会話記録である。

平成8年3月14日
 今回が初めての自分一人での病院訪問。はたして僕を覚えていてくれてるだろうか、少し不安であった。
 が、僕を見るなり「ああ、又来てくれたんですか・・」と言ってくれて一安心。
 今日は、彼が出版した詩集の話をした。
 一冊目の詩集は、彼が16~8才の頃に書き溜めた詩で、読ませてもらって思うのは、自分の病気に対する苛立ちや悲しみのエネルギーが噴出している感じがした。
 そして二冊目は、19才以降のもので、こちらは悲しみを通り越して、何か悟っているかのような感じで、他者への思いやりの気持ちや優しさが強く出ているような感じがする。
 そんな感想を彼に伝えたら、彼は「僕と云う《存在》は自然の中の一部であるような、そんな感じがするのです。・・体の動きが、前より不自由になって、書きたい詩の内容も少し変わったような気がしています。・・ひょっとして、兄ちゃんとの事も〔超えた〕のかもしれない。(N君の兄も同じ病気で小さい時に亡くなっている)」と言った。
 兄弟の間にどのような思い出があったのかは、教えてくれなかったが、少しN君の気持ちに寄り添えたような気がした。
 つづく

 


 

筋ジストロフィー青年との会話記録 その2

 前回からの続き・・
平成8年2月22日の記録
 ・・O先生に連れられて、N君(21才)に会うべく、僕は初めてT病院のY病棟に入った。
 大きなエレベーターで二階に上がり、六人部屋に入る。
 初めてN君に出会った時の印象は強烈であった。
 頭は普通の若者と同じぐらいの大きさなのだが、体は痩せ細り、腕も足も骨と皮だけのようであった。
 それに今は、口からモノを食べることができなくなっていて、胃に穴を開けて栄養剤を入れて生命を保っているということで、薄緑の液体の入ったガラス瓶からチューブが出ていて、体とつながっていた。
 この時、彼は髪の毛をわりと伸ばし、薄ヒゲで目だけがキラキラ輝いていた。
 O先生が僕を紹介してくださり、N君と僕のしどろもどろの会話が始まった。
 まず、受けた印象は、彼はとても頭が良くて、なんでも知っているという事であった。
 たとえば、僕に「なぜ、○○寺はよく内紛が起こるのでしょうねぇ。・・西本願寺はどうなのですか?」と、聞いて来た。
 彼はテレビや雑誌などから、社会情勢・政治経済・スポーツなどの情報を知っていたのだ。
 どう答えて良いか戸惑ったが、僕の知ってる範囲で答えた。
 こうして少し世間話などをして時間を過ごした。
 彼は繊細で、誠実な性格のように思えた。
「これは気が合うかもしれん」と思った僕は、「又来ても良いですか?」と尋ねたら、OKが出たので、ほっとして今日の所は帰ることにした。
 ・・こうして、僕と筋ジストロフィー青年N君との三年間に渡る交流が始まったのだ。
つづく

筋ジストロフィー青年との会話記録 その1

 先日、本箱を整理していたら『筋ジストロフィー青年〔N君〕との会話~国立T病院Y病棟への訪問記録~』〔平成8年2月~平成10年4月〕という冊子が出て来た。
 ・・これは、僕が今のお寺に引っ越して来るまで、二・三ヶ月に一回、このT病院に訪問していた時の記録である。
 10年の前の記録だが、今読み返してみても、昨日の事のように思い出される。(この冊子のN君は、もうすでに亡くなっているが・・)
 この記録が出てきたのも何かの縁かもしれない・・又このまま眠らせておくなというN君からのメッセージかもしれない。
 だから、何回かに分けてこの『訪問記録』を編集し、ブログに載せてみたいと思う。
 おいおい《N君》については、どのような青年なのかは書かせてもらうとして、ちなみに《筋ジストロフィー症》という病気を簡単に説明しておくと、この病気は『原因不明の難病で、筋肉の萎縮と脱力が徐々に進行し、歩行や運動が困難となるという疾病。5~6才で診断され10代で亡くなる率が高く、今のところその治療方法はまだ見つかっていない》となんとも残酷に『家庭医学百科』には書かれている。
 N君は、先天的進行性のこの病気だったのである。
 
 《記録のはじめに~》
 『平成8年2月22日、私は初めてT病院で、(お寺の)恩師のO先生の紹介により、N君とお会いしました。
 N君は、この時21才。病名は『筋ジストロフィー』でした。
 入院生活が長いN君に「誰か話し相手を探している」との事を、O先生からお聴きし、取り合えずお会いすることにしたのです。
「私に話し相手が務まるだろうか?」と心配でしたが、N君のあまりに純粋な印象に、私は胸が熱くなりお付き合いさせて頂くことにしました。今から綴るのはN君を訪問した時の記録です。』と、記録はここから始まるのである・・。
 つづく
 
 

〔攻撃型〕認知症と〔友好的〕認知症

 ・・色々な〔老人ホーム〕へ、《出前》に行っていて思うのだけど、〔認知症〕にも二種類のタイプがあるなと感じている。(勝手にだが・・)
 一つは〔攻撃型〕な認知症の方。
 そしてもう一つは〔友好的・いつも楽しそうな〕認知症の方である。
 ・・おおざっぱであるが、そう感じている。
 そしてその〔攻撃型〕にも、言葉の攻撃タイプと、手足を使っての、まさに暴力的なタイプに分かれるが、皆さんその限度は(なぜか)わかっておられるような気がする。

 〔友好的〕認知症の方は、いつも楽しそうで周りを明るくされている。(いつも歌を唄ったり、踊ったり。)
 ・・たとえば、毎回、僕を見つけたら「あー、又お会いしましたねぇ。ホント嬉しいわー。じゃ、いつものように唄いましょうよ。今日は何唄う?(いつも唄ってない、唄ってない・・〔笑〕)」と、話し掛けて来られる。

 この〔攻撃型〕と〔友好型〕。(タカ派とハト派のようだが、)どうして同じ〔認知症〕でもこうも分かれるのであろうか・・?
 まったく解らない!
 はっきりしているのは、ご自分の《信仰》の有る・無しではないという事・・。(いつも自分の《信仰》を自慢している人でも、攻撃的認知症の方はおられるので・・)
 では、育ちや環境の違いか?・・又、人生観や世界観の違い?・・またまた、どのような経験をされたかによって違うのか・・?
 今、その現場で色々と聞いて調べているのだが、やはり解らない。
 なぜ、調べているかって・・?
 僕自身〔友好的・ハッピー〕認知症老人に、(いつか)成りたいと思っているからである。
 

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