失恋の傷が、まだ癒されぬ露子に、さらに追い打ちが掛かります。
それは、師であり心の友であった家庭教師の解雇と、自分の味方であった妹の嫁入りによる別れでした。
一人ぼっちになった露子が、そのやるせなさを解放できたのは、雑誌への投稿である[文筆活動]でした。
与謝野鉄幹・晶子夫妻等と知り合いになった露子は、次第に社会へ目を向けるようになるのです。
次の歌は、与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』の歌よりも、早く発表された露子の反戦歌です。
『みいくさに こよい 誰(た)が死ぬ さびしみと 髪ふく風の 行方(ゆくえ)見まもる』
(意訳)
「この日露戦争で多くの人が亡くなった。
今夜はいったい誰が死ぬのであろうか。
ああ、寂しい。
私の髪は戦場へ 風と共になびいていくようだ。
ああ、私はそのように思いやることしかできない。」
このように、露子は反戦の歌や小説を発表し、社会や国家のあり方に、自分の持つメッセージを込めたのでした。
つづく