住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「黎明(れいめい)のくろまろ」(その5:最終回)

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 時の天皇は、くろまろを呼び出して言いました。
「くろまろ、海の向こうの[新羅(しらぎ)]=(今の韓国)という国に行ってくれんか。
 彼の国の領土問題がこじれて、助けを求めておるんじゃ。
 行って、見て来てくれ。」
 と、くろまろを『遣新羅使(けんしらぎし)』として、派遣させました。
 一年後、無事、任務を終えて帰って来たくろまろに、又もや時の天皇は、
「くろまろ、今度は『唐』の国にいってくれ!」と、言われました。 
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 「はっはい・・、わかりました。向こうの国には、まだ、私の知り合いもおりましょう。・・ヤマトの国の為、力を尽くしますまろ、まろろろろっ・・。」
と、今度は『遣唐押(おう)使』という、最高責任者となって、国どうしの難問を解決する為に、旅立ったのです。
・・がしかし、もう、くろまろは高齢で、この時心身ともに過労のため、限界にきておりました。
 無事、唐の国に到着し、長安(ちょうあん)の都で、皇帝に会い、仕事を果たしたのですが、・・その地で倒れて、そのまま唐の国で亡くなってしまいました。
 その年、西暦654年。・・推定で、くろまろは65歳前後でなかったか?と伝わっております。
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 ・・考えてみますと、くろまろの一生は働き通しでした。
おそらく、10代の後半、留学生に選ばれて、たった一人で親元から離れ・・、
 そして海を越え、古代中国で、32年間に渡る勉強。
 帰国後は、その知識を生かして、日本の制度の改革に挑み・・、
 そして、日本の代表として、正々堂々と外国と渡り合い、平和を摸索し、交渉に命を注ぎました。
 正に、くろまろは、日本の夜明けの為に、生まれて来て仕事を果たしたと云って、間違いないでしょう。
 
 今、大阪は河内長野市の『高向(たこう)』という、くろまろの故郷に、その顕彰碑が建っています。 おしまい
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(河内長野市:高向『くろまろの郷』)
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(河内長野市:高向 河内長野市立『くろまろ館』)

 ※紙芝居制作にあたり、『くろまろ館』の館長様、学芸員さま、職員さま、マロン観光ガイドボランティアさま、いろいろとご指導とご鞭撻、資料提供、ご教授有難うございました。この場を借りまして、厚く御礼申し上げますマロ。合掌

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