(実際の『赤毛品種』:北広島市教育委員会からの頂いた稲穂)
稲作に成功したのち、久蔵さんは56才で、自宅を改築し『島松駅逓(エキテイ)所』〔宿泊と運送の便を図る為の場所〕の経営を始めます。
そしてその後、幸せな半生を送り、92才でその生涯を終えます。
その晩年、久蔵さんは、稲作を始めた頃のことを振り返って、次のような事を述べられています。
「開拓使長官であった〔黒田清隆〕長官は、ワシに『お前は、山の中で、ずっと一人で暮らしておるので、姓を《中山》にしたらどうじゃ』と言われたので、ワシは《松村久蔵》から《中山久蔵》に変えたんじゃ。
・・又、初めの頃は、ワシに『北海道での稲作は無理じゃ。栽培する者は懲罰にするぞ』と脅かされた。・・が、ワシは『北海道での稲作はきっと成功する!米の収穫が百万石になるまでは、ワシは死なん!』と言ったら、ワシは笑い者になった。・・しかし見るが良い。こんなに稲作が盛んになったではないか!百万石の収穫も今では夢ではない」と・・。
ここにもう一つ、久蔵さんのエピソードを・・。
この「紙芝居」の一番初めに名前を挙げました〔クラーク博士〕は、明治9年、札幌農学校〔現・北海道大学〕の教頭として赴任され、翌10年、アメリカに帰国されます。
これは、その帰国途中でのお話・・。
〔クラーク博士〕と農学校の生徒達は、別れの場所として、久蔵さんの自宅を選ばれました。 そしてそこで、生徒達と昼食をご一緒に取られました。
そして、その別れに当たって、『ボーイズ・ビー・アンビシャス!・・ライク・ディス・オールドマン!』(青年よ、大志をいだけ!・・この老人のように)と言われたそうです。
これは、「北海道で〔米作り〕は無理である。小麦とジャガイモだけ作れば良い」というような事をおっしゃった〔クラーク博士〕の久蔵さんを前にしての、自嘲と、彼への尊敬を込めた言葉、そして博士自身の敗北宣言ではなかったでしょうか?!(あくまでもフィクションですが、この方がドラマチックでしょ・・。〔笑い〕)
現在、奇しくも、〔島松沢〕の久蔵さんの自宅前には、〔クラーク博士〕と〔久蔵さん〕の記念碑が、並んで建っています。
久蔵さんは、長生きでした。
先ほども申しましたが、大正8年92才で、ご自分が切り開いた〔島松の里〕で人生を終えます。
その亡くなる前日まで、水田を見回っていたと伝わっています。
最後に、久蔵さんは、成功を収めたのち、故郷の〔大阪〕は『太子町・春日』に何度もお帰りになったそうです。
やはり、故郷が懐かしかったのでしょうか・・。
そして、ご自分の檀那寺である『光福寺』さまに、お米やお金など、多額の寄進をされました。
今もはっきりと残る、山門下の石段と本堂前の石畳に刻まれた、『中山久蔵』の文字に、往時が偲ばれます。 おしまい
(光福寺・石畳の文字)