『ひとりの念仏は万人の為、万人の念仏はひとりの幸せの為に~良忍さまの生涯とその伝説~』プロローグ
『融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)』。
別称で『大念仏宗(だいねんぶつしゅう)』とも云う。・・うちの近辺のおっちゃん達はそう呼んでいる。
・・日本仏教は、宗派が多い。
『融通念仏宗』も、その一つである。
・・うちの[宗派]は『浄土真宗』。
しかし、僕は以前、とある『融通念仏宗』のお寺の住職さんから、[紙芝居法話]を頼まれ参らせて頂いた時、帰り際に「うちの宗派の[開祖]の紙芝居を是非、作って下さい。」と頼まれた。
それでその時、融通念仏宗のたくさんの資料をお預かりし、この紙芝居を完成させた。・・今から4・5年前のことである。
この倉庫に眠っていた紙芝居をようやく、ここに発表する機会を得た。
それでは、はじまり、はじまりー。
昔、むかしのものがたり。
それは、平安時代の終わりの頃・・。
これは『融通念仏宗』を開かれた[良忍(りょうにん)]上人の不思議な不思議なお話。
良忍さまは、尾張の国の富田庄(今の愛知県東海市)という所で、お生まれになりました。
生まれた時から、とてもきれいなお声をしていたので、『音徳丸』と名づけられたそうです。
ところが、音徳丸さまは、普通の子供とはちょっと違っていました。
友達と外で遊ばず、家の中で土をこねては仏様のような物をつくり、手を合わすのが好きな子供だったのです。(よーある話だ)
音徳丸さま、13歳(12歳とも?)の時、「どうか、私をお坊さんにならせて下さい!」と、ご両親に頼まれました。
最初は、反対をしていた両親でしたが、最後は根負け。
ついに、出家することを許されました。
こうして、音徳丸さまは、京都は比叡山に登り、厳しい修行生活に入ったのです。
名前も『光乗坊(こうじょうぼう)良忍(りょうにん)(良仁とも云われている。良忍に変わったのは大原の地へ移ったのちとも?)』に変わったのでした。 つづく