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紙芝居:『にんじん』(その5 最終回)

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 ある日、いつものようにお母さんが
「にんじんっ、おつかいに行っておくれ!」と言った。
 が、僕は初めてお母さんの顔をしっかり見て、
 「嫌だよ。ママ」と答えた。
「・・なんですって!にんじん、あなた自分が何を言っているか解ってるの⁉」とお母さんは言った。
 「解ってるよ。でも、僕は行かない。」と、僕はお母さんをじっと見つめて言った。
 「・・・」
 お母さんは初めて震えた。
 そして、「お兄ちゃんっ、お姉ちゃんっ!ちょっと聞いて!・・にんじんが云う事を聞かないの⁉・・これはどういうこと⁉・・革命が起こったの⁉」と言って、この日を境に、お母さんは寝込んでしまった。
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 そしてその後、僕は初めて家族に手紙を書いた。
『お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、僕はこのまま家で生活をしていると、死にたくなってしまうので、遠くの学校に転校することにします。
 そう、お父さんと相談して決めました。
 そこは寮があるので、うちには帰って来ません。さようなら。休みの日には帰るかもしれません。にんじんより』と。
 みんなは何も言わずに、その手紙を読んだ。
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 こうして、僕は少し寂しかったけれど、家族から離れた。
 だけど、やがてたくさんの友達を作ることができたんだ。
 そして、その後、もう死にたくなる事はなくなり、明るく暮らすことができたんだ。 おしまい

(紙芝居のおわりに少し・・)
 何という、後味の悪い終わり方なのだ!
 家族が離れて、ハッピーエンドだなんておかしい。
 が、児童虐待の精神疾患⁉を持っているような母親とは、離れて暮らすことが(親子にとって)良策だったのだ⁉と思ってしまう。
 この物語は、半自叙伝だという、原作者ジュール・ルナールの日記では、その後、父も母も(自殺?といわれているが)非業に亡くなってしまう。
 現実も悲しい終わり方なのだ。
 母親のこころに何がおこったのだろうか?わからない。

 ところで(はじめに)のところで書いた、精神的虐待を実際に受けた友人に、この紙芝居を見てもらった。
 『・・自分は親にいじめられて生活してきたが、親と離れて住んで、初めて親の身持ちが解ったような気もするのです。』と言った。
 そして、『私を救ってくれたのは、この紙芝居の父親のような悩みの相談に載ってくれた多くの友人でした。』と付け加えてくれた。 終わり
 
 
 

紙芝居:『にんじん』(その4)

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ある日、僕はお父さんと二人で釣りに出掛けた。
 僕はお父さんに、ぼそっと言った。
 「父さん、僕は本当にお母さんの子供なの?」
『うん、間違いない・・。お前はお母さんの子供だよ。』とお父さんは言った。
 「じゃあ、なぜ?あんなに母さんは、僕をいじめるんだろ⁉」
『うん⁉・・母さんは一挙一動、お前を見ていると「自分自身の嫌な処を見ているようだ」と、言っていたことがある。・・自分が嫌なために、お前をいじめるのかもしれんなぁ・・?』と言った。
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 「でも、父さんっ。僕あんまり辛くて、この前、洗面器の水に顔をつけて死のうとしたんだよ。・・そしたら、母さんに見つかって、ひっぱたかれたんだ。」
『そうか、そんなことがあったのか・・。
 でも、にんじんっ、どうか死なないでおくれ。お前に死なれたら、私はどんなに悲しむか・・。
 私は母さんと仲が悪い。・・だから、あまり会話をしない。又、仕事が忙しくて留守がちだ。
 でも、にんじん、お前の事は愛しているよ。
・・そうだっ!にんじん、お前、遠くの学校に転校してはどうだ!・・その学校は寮があって、そこでは、友達と一緒に生活できるんだ。もう、家族と住まなくても良いんだよ・・。』と言って僕を抱きしめた。
 その時、僕は始めて、あたたかい父さんの血を感じた。 
 つづく

紙芝居:『にんじん』(その3)

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 僕は、おねしょをする癖があった。
 おねしょをする度に、お母さんは僕をきつく叱った。
 しかし、或る日、又僕はシーツを濡らしてしまった。
 ・・が、その日、お母さんは何も言わずにその濡れたシーツを持って部屋を出て行った。
 「にんじんっ、朝ごはんよ!」と、しばらくしてお母さんは僕を呼んだ。
 僕はテーブルについて、スープを一口飲んだ。
 僕はドキッとして、スプーンを止めた。
 それを見て、お母さんは笑いながら言った。
「汚い子ね。わが子ながら嫌になっちゃう。・・いいこと⁉あなた、自分のした[おねしょ]入りのスープを飲んだのよ。」と、言った。
 僕は「うん、たぶんそうだと思ったよ。」と言った。
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 ある日、僕はおでこに怪我をしてしまった。
 大量に出たおでこからの血を見て、僕ではなく、お兄ちゃんが「ギャー!」と言って気絶してしまった。
 お母さんが飛んで来て、僕ではなく、お兄ちゃんをそっとベットに運んで、冷たい水で頭を冷やして看病し始めた。
 僕は姉さんに包帯を巻いてもらった。
 そんな僕を見て、お母さんは言った。
「まったく、いつもこうなんだから!本当にどうしょうもない子ね!」と。
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 ある食事の時。
 お母さんは、僕に言った。
「あなたの分のメロンはありませんよ。私と一緒で、にんじんはメロンが嫌いだから。」と。
 本当は、僕はメロンが大好きだった。
 が、お母さんの言うことには逆らえなかった。
「さぁ、にんじん、メロンの残りの皮をウサギに持って行ってやりなさい!」とお母さんは言った。
 「はい。」と僕は答え、家族が食べ残した黄色い部分を、ウサギ小屋で一人懸命にかぶり付いたのだった。 つづく

紙芝居:『にんじん』(その2)

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お母さんは、僕が嫌いなんだ。 
 だから、僕をいつもいじめる。
 兄さんと姉さんは可愛がられるのに、僕はいつもいじめられる。
 父さんは、そんな僕を見てしらんぷり。 
 だから、僕の心はいじけている。
 ・・でも、本当はさみしがりやなんだ。
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 ある晩のこと。
 お母さんが窓から外を見て言った。
「あら、ニワトリ小屋の扉が開いたままだわ。お兄ちゃん、閉めて来て。」
 「やだよ。怖いもん。」
「それじゃお姉ちゃん、閉めてきて。」
 「私だって嫌よ。」
「あらっ、そうだわ。にんじんを忘れていた。・・にんじん、あなた閉めてらっしゃい!」
 「僕も怖いからやだよ。」
「何を言っているの!怖いですって!もうそんなに大きいのに。早く行きなさい!」と、お母さんは、僕に手を挙げた。
 僕は泣く泣く、ニワトリ小屋の扉を閉めに行った。
 勇気を出して閉めて帰ってきたら、みんなしらんぷりをしていた。
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 ある時、父さんが、鉄砲でキジを射止めて帰って来た。
 キジはまだ生きていた。
 お母さんが僕に言った。
「にんじん、キジを料理しなきゃなんないの。早くいつものように、キジの首を絞めてしまいなさい。」
 「やっぱり僕、キジの首を絞めるのやだなぁ・・。」
「何言ってるの!それは男の仕事でしょ!」と、お母さんは怒鳴るので、僕は目をつぶってキジの首を絞めた。
 キジは羽根をバタバタして必死で抵抗した。
 そして、やっと動かなくなると、お母さんは僕を見てつぶやいた。
「まぁ、残酷な事。あなた、心の中では喜んでるんでしょう。・・ぞっとするわ。」と言った。 つづく

紙芝居:『にんじん』(その1)

 (はじめに)
僕の友人に、昔、実の母親に『精神的虐待』を受けた者がいる。(今は幸せに過ごしているが。)
 それは、子供の頃の事なのだが、今も鮮明にその体験談を話してくれた。
その話を聞いて解ったことは、大人になった今も、心は深く傷ついている・・ということだ。
 又、その話を聞いて、僕は『それって、外国の児童文学[にんじん]と一緒やん⁉』とも思った。
 心理的虐待をテーマにした半自伝的児童文学、ジュール・ルナールの『にんじん』である。
 そしてこの話、今こそ『紙芝居』にすべきだと思った。
 それが、今からお話する紙芝居『にんじん』である。
 尚、この紙芝居はラストが小説とは少し異なっている。
・・敢えて、そうした。それを最初に述べて始めるとする。
 それでは、紙芝居『にんじん』のはじまり、はじまりー。
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 《母につけられたあだな にんじん》
 ジュール・ルナール原作
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 僕は『にんじん』と呼ばれている。
 髪の毛が赤くて、もじゃもじゃしているからかもしれない。
 そんなあだなを付けたのは、お母さんだ。
 お母さんは僕を名前で呼ばず、『にんじん』と呼ぶ。
 だから、お父さんも、兄さんも、姉さんも、みんな僕を『にんじん』と呼ぶんだ。 つづく

紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その9:最終回)

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順教尼は、身体の不自由なお弟子さんたちに、
「たとえ、両手・両足が無くても、他の人に笑顔や優しい言葉を差し上げることはできる。・・それを忘れてはならない。・・体が悪くても、心の障害者になってはいけません。」と言われました。
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 又、お掃除も徹底して行われました。
 
 片足の悪い御弟子さんとの間に、次のような会話が残っています。
「先生っ、なんで私は、こんなに転ぶのでしょうか?」
 すると、順教尼は、
「片足が悪くても、転ばない方法を教えてあげよう。
 それはな、悪い足を隠さないことだよ。」と言われました。
 これは、《自分自身のこだわりを捨てよ》という教えでした。
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 日本のヘレンケラー。
 身体障がい者の心の母と、呼ばれた大石順教尼は、昭和43年、80歳で大往生されます。
 社会事業家であり、宗教家であり、芸術家であった大石順教尼。
 そのお墓は、現在彼女の[腕塚]と共に、和歌山県の高野山、奥の院参道に祀られています。 おしまい
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(ご子孫:大石晶教尼さん)
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(高野山:大石順教尼の墓)

紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その8)

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(京都:勧修寺)
そして大石順教尼は、昭和11年、京都山科の[勧修寺(かじゅうじ)]様の賛同・協力を得て、敷地内に、身体障がい婦女子の為の精神道場を設立します。
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(仏光院)
 さらに、『堀江六人斬り』等の犠牲者を弔う為、宗教法人『仏光院(ぶっこういん)』を建立。
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(可笑庵)
 そして戦後、その敷地内に『可笑庵(かしょうあん)』を建立。
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 身体の不自由な人達の為、社会復帰の為、施設づくりに尽力を尽くされます。 つづく 

紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その7)

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 その後、妻吉は高座を降り、25歳でプロの絵描きと結婚。
 そして、二人の子供にも恵まれます。
 が、33歳で離婚。
 彼女は生活の為、布地に花や鳥などの模様を描く[サラサ]のプロになって、子育てをして生き抜きます。
 さらに、身体障がい者婦女子の福祉相談も始めるのでした。
 その後、口に筆を噛むと、激痛が走るという難病にも掛かりますが、それも一年で乗り越えます。
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 そして、『堀江六人斬り事件』の犠牲者を弔う為、(長年の願いであった)高野山で、45歳の時に出家得度。
 名前を[大石順教]と、改めました。 つづく
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(高野山)
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(高野山:奥の院参道に建つ『大石順教尼の墓』)

紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その6)

余談になるが、妻吉(のちの大石順教)が、芝居の一座と共に日本中を旅をしていた時、妻吉を姉のように慕い、終生仲の良かった芸人に、有名な『柳家金語楼(やなぎや・きんごろう)』がいる。
 彼は、妻吉が口で文字の練習を始めた頃、自分も一緒に字の練習をしていたそうだ。以上
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 妻吉の口を使っての文字を書く練習が始まろうとしていました。
 が、彼女は幼い頃から舞妓であった為、学校に行っていません。
 だから、文字の読み書きが出来なかったのです。
 そこで、彼女は自分で、(旅先で)小学校を見つけ、そこの校長先生にお願いし、文字を教えてもらう事からスタートしました。
 そしてその後、口に筆を含み、懸命に努力し、文字の読み書きを覚えたそうです。
 さらに、その後、絵画の道も究めるようになっていきます。 つづく
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(※僕も真似して、口で写経をしてみた。・・ボロボロでした[苦笑])

紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その5)

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 病院を退院した妻吉(のちの順教尼)は、生活の為に働かなければなりません。
 両腕を失い舞妓に戻れなくなった彼女でしたが、大阪の寄席に出て、三味線に合わせて長唄を歌いました。
 見物客は、『堀江の六人斬り事件』の生き残りを、一目見ようと、寄席は連日、大賑わいであったそうです。
 それから、彼女は旅芸人の一座と共に、日本中を旅することになります。
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 そして、旅の一座が東北の仙台の旅館に泊まった時の事です。
 その宿に[カナリヤ]の鳥かごが吊るされていました。
 その鳥かごの中を見ると、小さな雛が居て、親のカナリヤがくちばしでエサを懸命に運んでいました。
 妻吉は「あぁ・・、この鳥たちは羽があっても手は無い。なのに、口を使って一生懸命にエサを運び育てている。
 そうだ、私にも口がある!・・できないはずがない!」  と、彼女の前に小さなカナリヤを通して、大きな世界が見えた一瞬でした。
 この時、妻吉19歳でした。 つづく

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