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紙芝居:『富田林のはじまり~寺内町の話』(後編)

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こうして『富田の荒れ地』の開発工事が始まりました。
 周囲の四つの村から、各二名ずつ代表を決めて計『八人衆』で、お寺の建立や周りの屋敷の町割り、そして田畑の場所などを取り決め工事を開始したのです。
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 こうして[永禄四年]、寺内町は完成しました。
 この町は、東西七本、南北六本の街路で区画された[13.3ヘクタール(東京ドーム約三つ分)の]町で、(興正寺という)お寺を中心に創られました。又、周りは堀などで囲み、夜は門を閉め、誰彼なしに入れないようにしました。(結果、野武士たちは入れなくなりました。)
 そして町全体をお寺の境内とみなし、信者たちが平和な話し合いで物事を取り決めのできる『宗教自治都市』になったのです。
 又、同じ宗教の[浄土真宗](本願寺)が織田信長軍と戦い、浄土真宗に味方した町が、信長軍に焼き払われる中、富田林寺内町は信長に逆らわず、お金を出して中立を守った為、焼き討ちに合わずに済みました。
 宗教.寺院の威光を利用しながら、自分たち町民の事は、自分たちで決め、そして守るという、したたかさもあったのです。
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 こうして寺内町は、彼ら民衆で『富田林(とんだばやし)』と名付けられ発展してゆくになります。
 そして江戸・明治時代を経て、富田林全体の商業中心の役割を担い、木綿業、材木商、清酒業などが大いに発展していきました。
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戦乱の世に、自分たちの[極楽浄土]を作ろうと、庶民が立ち上がり、完成した町『富田林寺内町』。
 今、令和の時代、寺内町はその歴史と文化の大きさから、『重要伝統的・建造物群保存地区』の指定を国から受け、新しい街づくりの試みが始まっています。
 
 それでは、最後に寺内町で生まれ育った歌人『石上露子』の一首の歌でこの紙芝居を終わることにいたしましょう。
『今はとて 還りゆくべき古里は 哀しかりけり 恋しかりけり』 おしまい

紙芝居:『富田林のはじまり~寺内町の話』(中編)

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各村の農民たちは、それぞれ代表を決めて集まりました。
「どないしまひょか⁈このままでは、我々はずっと泣き寝入りや。‥米は奪われ、家は焼かれる。・・それに兵隊には取られるし、年貢は取られても、ご領主は我々の命を守ってくれへん。」
「そや、武士に頼らん、我々だけの町を作るんや!」
「それはええ案やけど、そんな土地はどこにあんねんな?」
「ひとつ、あるでぇ!」
「えっ?それはどこや?」
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「あの『富田(とんだ)』の芝地やがな!」
 そこでみんなは、その土地を見に行きました。
「・・あの荒れた土地でっか⁈」
「そやがな、みんなで力を合わせたら、きっと立派な町が出来るで!・・みんなで銭出して、土地を買うんや。」
「けど、わしらお公家や武士やお寺さんと違うから、土地なんか勝手に買われへんで⁉」
「そや![興正寺(こうしょうじ)]の証秀(しょうしゅう)上人にお願いしてみよ。お上人にわしらの代表になってもらおう。・・お寺を中心とした新しい町づくりを頼んでみよう!きっと賛成してくれはんで!」 
 そこでみんなは、大阪の興正寺へ向かいました。
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 お上人は、農民の代表者たちに会われておっしゃいました。
 「お前たちの言いたいことは、よう分かった。
 荒れた芝地を、お寺を中心とした[寺内町]にしようというこっちゃな。・・武士たちの好き勝手な事の出来ん、自分たちで運営する平和な[極楽浄土]みたいな町を作ろうというこっちゃな。
 ようわかった。賛成や。・・しかし、あそこの土地は確か守護大名の土地や。売ってくれれば良いが・・、銭は百貫文(今の約2500000円)ぐらいは出さんとあかんやろなぁ・・。お前らはお金の工面をせぇ。わしは交渉に掛け合うたる。」
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 そしてお上人を代表に、守護大名と掛け合い、『富田の芝地』を、農民たちは手に入れました。つづく

紙芝居:『富田林のはじまり~寺内町の話』(前編)

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昔むかしの戦国時代。
 時は「永禄年間」の初めの頃。
 ここ大阪の「南河内(みなみかわち)」も力の強い武士たちが、土地の権限を奪い合おうと、日夜戦いを続けておりました。
 そんな折、悲しい思いをするのは、いつも百姓や町人でした。
 彼らは、争いの無い平和な国の実現を夢見ていました。
 そして、ついに彼らは立ち上がりました。
 時の権力者の支配を受けない、この世の[極楽浄土]の町『宗教自治都市』を作り上げようと思い、ついにそれを作り上げたのです。
 それが『富田林寺内町(とんだばやし・じないまち)』でした。 
 このお話は、そんなユートピア実現のお話です。
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 「出合えー出合えー、我こそは河内一の武士なり!ここの土地は我らのもの。手迎えするものは斬って捨てる!
 それっ皆の者、敵が隠れておらぬか、すべて焼き払えー!」と、武士たちは毎日、仁義なき戦いを続けておりました。
 それを見て、逃げ惑うはいつも庶民たち。
「ああっ、わしらの家が燃やされる!・・それに、せっかく作った田んぼも畑もめちゃくちゃや・・これから、わしらはどうやって生きたらええんや⁉
・・もう、我慢できん!皆で相談しよう。庄屋さんのところへ集合や!」 つづく

紙芝居:『相撲のはじまり』(その7 最終回)

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いよいよ、この紙芝居も最終話である。
 さて、この相撲の『始祖・神様』と呼ばれるようになった[土師(はじ)の宿禰(すくね)]は、そののち、天皇家の『葬式儀礼』を司る専門職になります。
 そしてその一族は、のち[桓武天皇]の時、新たに『菅原(すがわら)』という、苗字をもらいます。
 そう、あの有名な[学問の神様]『菅原道真(みちざね)』は、宿禰の子孫にあたるのです。
 ・・が、それは又別のお話にして、これにて『相撲のはじまり』は、おしまい。めでたし、めでたし
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(今は駅名だけとなった『近鉄[土師の里(はじのさと)]』。・・おそらく、この周辺に[土師(=野見)]の一族は暮らしていたのだろう。]・・面白いことに?この駅の横に大きな葬儀屋さんがある。(因縁か⁈この葬儀屋さんの先祖は宿禰に関係があるのか⁈・・わからない(笑))・・僕も昔一度、こちらでお葬式を執行したことがある。)
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(駅前にある古墳群(宿禰の一族の墓という説?もある))
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(今も、相撲の力士たちは、宿禰の墓参りをするらしい・・。)
おしまい

紙芝居:『相撲のはじまり』(その6)

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(野見宿禰の墓か?奈良:十二柱神社内)
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(當麻蹴速の墓か?葛城市:相撲館けはや座前)
 ・・本筋に戻す。
 この野見の宿禰たちの『力比べ』が、宗教儀式として、宮廷行事となり、現在の[相撲]の形となっていきます。
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 まず、『土俵』という神聖な場所を設置して、四隅に神々を祀ります。
 力士たちは、マゲを結い、マワシを絞めて、お塩と水で身を清めます。
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 そして、足元の邪鬼を封じ込める為に、シコを踏みます。
 柏手を打ち、さらに両腕を左右に開くのは、武器を持ってない証拠をあらわす為です。
 そして、勝った力士は、勝利の感謝をあらわす為に、三つの神々(神産巣日(かみむすび)の神、高御産美日(たかみむすび)の神、天御中主(あめのみなかぬし)の神)にお礼をして、懸賞金をもらいます。
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 こうして、相撲は日本独自のスポーツになっていきました。つづく
 

紙芝居:『相撲のはじまり』(その5)

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・・余談になるが、昨日、実際の『大相撲』観戦に行ってきた。(もちろん、この紙芝居の参考にする為である。)
 『大相撲 羽曳野場所』という、いわゆる[地方巡業]というものである。
 猛烈に暑い体育館の中、現役の人気力士たちの取り組みを観ようとファンたちで超満員であった。
 僕は、[マス席]という四角の座席を買ったのだが、狭くて観るのがつらかった、・・おそらく皆さんももそうであったろう。でも、会場は熱烈なファンの声援と熱気で多いに盛り上がっていた。(醒めた目の僕は、相撲の魅力とはいったい何なのか⁈・・ということを考えながら、老若男女の観客たちの表情ばかり観察していた。)
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『初切(しょっきり)』・・相撲の禁じ手をコントで面白おかしく教える見世物や、
『相撲甚句(じんく)』・・土俵上で力士が披露する余興的な歌、など、イベントならではの、対戦の間の大サービスのオンパレードで厭きさせなかったが、やはり、何時間も座ったままずっと観るのはしんどかった。
ファイル 1996-2.jpg つづく

紙芝居:『相撲のはじまり』(その4)

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野見の宿禰(すくね)は、天皇に言いました。
「天皇さまからの、有難きお言葉なれど、勝負とはいえ、人ひとりの命を奪ってしまいました。‥私は素直に喜べません。
 私は先祖より、人の命は尊きものと教えられてきました。
 もし、他にご褒美が頂けるなら、・・私に、人の命を頂けませんか⁈」と。
 それを聞いて、天皇は「それはどういう意味じゃ?宿禰」と聞かれると・・、
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「はい、今、位の高い王族の方が亡くなられると、お墓(古墳)の周りに『殉死』といって、元気な人もあの世のみちづれに、・・つまり、生き埋めにされます。
・・それをやめて頂きたいのです。
 その代わりと云っては何ですが、私が作りました[人]や[馬]などの『埴輪(はにわ)』を代わりに埋めるというのは、どうでしょうか?
 そうすれば、元気な者も死なずに済むし、その家族も喜びましょう。」と、宿禰は言いました。
 それを聞いて、天皇は「うーん、それは良い案じゃ・・一度考えてみよう。」と云われました。
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(埴輪類[近つ飛鳥博物館]より)
 こうして、やがて[垂仁32年]から、『殉死』は禁止され、お墓の周りには、[埴輪]が飾られるようになりました。
 そして野見の宿禰は、天皇から、『土の師』と書く『土師(はじ)』という苗字をもらい、こののち、[土師の宿禰]という名前に変わったのです。つづく

紙芝居:『相撲のはじまり』(その3)

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 さぁ、力比べが始まりました。
 この力比べ、今でいう[格闘技]です。
 武器はダメですが、キックもパンチもありです。
 負ければ、死なねばなりません。
 そう、命掛けのものでした。
 ドシッ、バシッ! 骨も砕け折れました。
 まさに、力と力のぶつかり合いです。
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(相撲神社内:力士モニュメント「誰がモデルやろ?」)
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 ドッドッドッシーン!
 當麻の蹴速(けはや)が倒れました。
 野見の宿禰がジャンプして、蹴速の上に全体重を乗せて急降下です!
 グウェェェー!蹴速の断末魔が響きました。
 そして、當麻の蹴速は、血を吐いて死んでしまいました。
 「あっぱれー!宿禰!天下一。ようやった!」と、天皇は上機嫌です。
 「宿禰、・・ほうびとして、當麻の蹴速の土地をくれてやろう!」と天皇は云われます。(考えてみれば、残酷なひどい話です・・。)
 が、しかし、宿禰は・・。つづく
 
 

紙芝居:『相撲のはじまり』(その2)

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 天皇の家来は宿禰(すくね)に言いました。
「野見の宿禰、ただちに天皇様のもとに参るように!
 そこで、お前は[力比べ]をするのじゃ。
 相手は、當麻の蹴速(たいまのけはや)]という者だ。
 蹴速は『力比べで、わしに勝てるものはいない!』と、自慢しておる!
 天皇様は「あやつの天狗の鼻を折ってやれ!」と言っておられる。
・・が、蹴速と互角に戦える力持ちは、おぬししか居ないんじゃ。
 宿禰、天皇さまの御前で、お前の力を見せてくれ!」
「はっはい、わかりました。」と、宿禰はこの突然の命令に、戸惑いながら了承しました。
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 垂仁(すいにん)天皇七年、七月七日。
 奈良の[三輪山]のふもと・・。
 天皇が見守る中、野見の宿禰と當麻の蹴速の[力比べ]が始まろうとしていました。
 これが、『相撲のはじまり』です。 つづく
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(奈良県三輪:実際に「宿禰たちの相撲」は、ここで行われたという『相撲神社』)

紙芝居:『相撲のはじまり』(その1)

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(相撲のはじまり~野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹴速(たいまのけはや)の天覧試合の絵『奈良県葛城市相撲館[けはや座]より』
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 『日本の国技』ともいわれる[相撲(すもう)]。
 その始まりは『古事記』の中の「神々の力比べ」と云われています。
 ・・が、人間同士の[相撲]の最古のものは、(紀元前二十三年)垂仁天皇七年七月七日に行われた、埴輪作りファイター野見の宿禰(すくね)と、奈良の地元ヒーロー當麻の蹴速(けはや)の命を掛けた格闘がはじまりと云われているのです。
それでは、その模様を紙芝居で見てみましょう。・・はじまり、はじまりー
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 今から約二千年前、第十一代天皇[垂仁(すいにん)天皇]の頃。
 大和の国(今の奈良県)の[初瀬出雲(はせいずも)]の郷に、『気は優しくて、力持ち!』の[野見の宿禰(のみのすくね)]という男が居ました。
 宿禰は陶芸(焼き物)の仕事をしていました。
 そこに、ある日、天皇の使いがやって来ました。つづく
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(奈良県:初瀬出雲の野見の宿禰塚)

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