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紙芝居:『夜泣き石』(その6 最終回)

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 そして現在。
 この夜泣き石は、今、岸和田市の『慈光寺』様の門前に祀られています。
 最近は、地元の小学校などからの見学会が多くなっているそうです。
 こちらのお寺のご住職は、この『夜泣き石』について、子供たちに次のようにお話しされています。
 「人間だけではなく、犬や猫、すべての動物たちに心があるように、・・ひょっとすると、石にも心があるかもしれません。
 (地球にある)すべての物を大切にすることは、とても大事なことです。
 生き物だけでなく、我々の周りにあるものを、みんなも大切にしましようね。
 さぁ皆さんも、この『夜泣き石』に耳をつけてみて下さい。・・夜泣き石がいろんなことを語りかけてくれるかもしれませんよ。」と。
 おしまい
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(夜泣き石)
 あとがき、
 以前からこちらのお寺の山門横にある『夜泣き石』のことが気になって、お話に行かせて頂く度に、紙芝居にしたいと思っていた。
 僕も『石』にも心があるような気がしているからだ。
 又、ご住職から聞いていた村人たちの大量夜逃げ『逃散』のことも気になり、無理やり『夜泣き石』の話と合体させて(フィクションとして)紙芝居化にした。
 逃散した村人たちは、一説によると、九州の五島列島にたどり着き、そこで新たな村を築いて生き延びられたらしい。
 そして、その新たな村の名前に『作材(サクザエ)』によく似た名を付けて住んだということらしい。
・・が、僕も調べてみたがわからなかった。
 この完成した『紙芝居』を持って、先日『夜泣き石』のところに行って報告してきた。
 そして、石に耳をあてたら、ゴゴゴッと反応したように感じた。
 又、手でなぜなぜしたら温かく感じたのだった。
 本当におしまい


 

紙芝居:『夜泣き石』(その5)

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 やがて月日は流れ、この石橋のお役目も終ろうとしておりました。
 それは、新しい水路が生まれ、橋が必要でなくなったからです。
 それで、皆でこの石橋を移動させることになりました。
 が、しかし、又この石は重くなって動きませんでした。
 そこで、皆でこの石橋に向かって、こう言いました。
「夜泣き石や。もうお前は、お城には連れて行かへん!
 お前はこれから、お寺に連れて行ってもろて、そこで祀ってもらうんや。・・だからな、心配せえへんでええ。そやからええ加減動いてくれ!」と。
 こうして、夜泣き石はようやく動きました。
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 こうして、この夜泣き石は、お寺の山門の横に祀られることになりました。
 が、いつの間にか、この夜泣き石は、『石を削って煎じて飲めば、夜泣きの赤ん坊が治る』という噂がたちました。
 その噂は、昭和の頃まで続き・・、
 赤ん坊の夜泣きで困っているお母さん方が、遠くからお参りに来られ、石を削って持って帰られたそうです。
 (余談ながら、こちらのお寺の総代さんに「その話は本当や。わしも飲まされた一人や。」と僕は聞いた。
 僕は「よく、石が体にたまりませんでしたねぇ」と笑いながら答えた。
 今もこの夜泣き石は、削られた跡がある。つづく(次回最終回)
 

紙芝居:『夜泣き石』(その4)

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 殿様は思いました..
「そうじゃ・・。昨年、作材の村人の大半が税を払えず、一夜にして、大船で夜逃げをした。
 それを[逃散(ちょうさん)]と呼び、藩上げての大騒動になり探査したが、ついに村人は一人として見つからなかった。
 どうやら風のうわさでは、村人たちは北九州の方面へ逃げたのでは⁈・・と聞いたが、今もどこへ行ったか、わからないままじゃ・・。
 作材の村人は、今もこの『岸和田』の土地に愛着があるにちがいない⁈『作材に帰りたい、作材に帰りたい!』と故郷を思っているにちがいない⁈ 
 しかし帰ってきたら、罰せられる。・・そんな望郷の複雑な念が、この作材の『石』に乗りうつっているかもしれん・・。城に居ればさぞや窮屈であろう。
 そうじゃ、きっとそうじゃ。・・この石は、やはり元の『作材』村に返してやろう。」
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 そして次の日、この夜泣き石は、庭から掘り出され、又『作材』村に帰ることになりました。
 「そーりゃ、そーりゃ」と、村人たちもうれしそうです。
「なんか、やけに軽いのおー、行きはあんなに重かったのに!」と。
 そして、この石は元の川の石橋に戻りました。つづく
 

紙芝居:『夜泣き石』(その3)

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 やがて、『作材(ざくざい・ざくざえ)の石』はお城に到着し、庭師によって殿様の部屋の横に置かれました。
 その夜のこと・・。
『しくしく、しくしく・・』
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 殿様が眠っていると、庭から誰かの鳴き声が聞こえてきました。
 「いったい誰の泣き声だろうか⁈」と殿様は思いました。
 やがて、その泣き声はだんだんと大きくなっていきます。
 たまらず、殿様は寝床から起き上がり、ふすまを開けると・・、
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 なんと、昼間運んだ『作材の石』が、おいおい泣いているのです。
 やがて石は、『作材(ざくざえ)のうー!、作材いのうー!=(作材に帰りたい)』と言いながら、大声で泣き始めました。
 その声を聞きて驚くとともに、殿様は「あっ!」と一つの事件を思い出しました。
 それは、一年前に[作材]村で起こった、『逃散(ちょうさん)』と呼ばれた、税が払えず、一夜にして村ごと夜逃げした大事件でした。 つづく

紙芝居:『夜泣き石』(その2)

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 ある日、岸和田城のお殿様が、お寺参りの為に、[作材村]の石の橋の近くを通りかかりました。
 このお殿様の名は『岡部行隆』公といいました。
 殿様は、その石橋を一目見るなり、「良い石じゃ、欲しい!」と気にいってしまいました。
 そして、家来に命じました。
「お前たち、作材の村人に命じて、すぐにこの[石橋]を取り外し、城の庭に運んでもって来るように!」と言いつけたのでした。
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 「えんやさ、えんやさ、皆引けーえんやさ!」と、みんなで石橋を取り外して、作材の村人はお城に向かって運びます。
 しかし、「何かおかしいなぉ~。石がお城に行くのを嫌がっておるみたいや。重くて重くて、なかなか進まんわ。」と、みんなは汗びっしょり。
 そして、ようやく石はお城に到着しました。つづく

紙芝居:『夜泣き石』(その1)

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 大阪府岸和田市の『作材(ざくざい)町』のお寺の門前に建つ[夜泣き石]。
 えっ?『その石は、夜になったら泣くの⁈』ですって・・。
 いいえ、違うのです。
 実はこの石、泣いたと云われたのは、ずっと昔のこと。
 これは、昔々に伝わる『岸和田市』の民話なのです。
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「おとうちゃーん、おかえり!」
「おうおう、お前たち、よう迎えに来てくれたんか⁈・・おおきにおおきに。・・それにしても、この大きな石の橋が小川に掛けられてるから便利でええわい。それに丈夫やし、見栄えも立派やしのう。ほんにええ石や。」
 と、このように、石の橋は皆の評判が上々でした。
 そんなある日のこと・・。つづく

紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その7最終回)

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 昭和三年、武子様は突如、敗血症で倒られます。
 おそらく、[震災復興活動事業]のご心労から、引き起こされたのではないかと言われています。
 そして武子様は、昭和三年二月七日、42歳の若さでお浄土に還られました。
 武子様が夢見た、総合診療所『あそか病院』の開設は、それから二年後のことでした。
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 武子様が初めて『巡教』に出られたのは、18歳の時。
 それから42歳でお浄土に還られるまでの、24年間・・。
 武子様は本願寺教団にとって、多大なる功績を残されました。
 仏教婦人会の近代的組織の促進。
 又、宗門女子教育機関の創設にご尽力。
 さらに、慈善事業に多大なる心血を注がれたのでした。
 武子様は、臨終の枕元で、皆に「また、来ます」と言われ、お浄土に還られたそうです。
 浄土真宗の『還相回向(げんそうえこう)』という言葉には、お浄土に生まれた者は、再び、この世に還って来て、悩める衆生を済度する。という教えがあります。
 武子様は、再び現世に還って来ることを、最後に約束されたのでしょう。
 ご遺骨は、東京の『和田堀廟所』と、京都の『大谷本廟』に分骨され、納められています。 おしまい

紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その6)

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阿弥陀如来さまに、命の尊さを味わせて頂いた武子さまは、自らも被災者でありながら、震災被災者の救済活動に打ち込んでゆかれます。
 武子さまと志を同じくする門徒たちは『築地本願寺跡』に、まず[テント救護所]を作りました。
 そして、はがきの代筆活動。(この頃は文字を書けない人が、一杯居られましたので)
 又、薬品や食料、そして衣服の供給、または遺骨の預かり活動なども実施されたのです。
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 さらに、震災孤児のために[児童救護運動]を実施されます。
 それは、全国からの寄付金を使っての[子供学校]や[幼稚園]の開設であったり・・、
 震災孤児になった少女や若い女性たちの為の施設開設であったりしました。
 足りない資金は本願寺教団を頼らず、武子様の著書の印税を、すべて使って補てんされたそうです。
 大正時代に、武子様のような救援活動をされた方は、ほとんどいませんでした。
・・それは、誠に尊い活動だったのです。 
 が、無理が続いたせいでしょうか?  つづく

紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その5)

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大正12年、武子様37歳。
 東京に[関東大震災]が襲います。
 この時、武子様は被害の多かった東京の[築地本願寺]付近に住んで居られました。
 その為、ご自身も被災されます。
 築地本願寺は全壊。
 そして、炎が迫り「もうダメ!」と何度も思われたそうです。
 が、武子様はお念仏を頼りにして、火事の中を脱出されます。
 炎の中、「ナムアミダブツ・・」と仏様の名前を呼ぶ度に、『我が名を呼べ!必ず救うぞ!』という、阿弥陀如来さまからの声がご自分の声と重なりあって聞こえ、何とか逃げ出すことができたのでした。 つづく 

紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その4)

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 日本へ一人で戻られた武子さまに、義理の姉を助けての[仏教婦人会]の仕事が待っていました。
 それは、父に代わって兄が[ご門主]になられたので、門主夫人になられた義理の姉の仕事が俄然増えて、忙しくなられたからです。
 それで、武子様が[仏教婦人会・総裁代理]となって、全国各地へ回られることになられました。
 さらに明治44年、その義理の姉が亡くなられた為、武子様は[仏教婦人会]の運営を、一人で背負わなければならなくなりました。
 それで、武子様は『仏教婦人会・本部長』に就任し、その重責を果たされる事となったのでした。
 そして、やがて待ちに待った夫がイギリスから帰国されました。つづく

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