(割木の上に寝る赤尾の道宗像:割り木の数は本当に48本なのか?と数えたら、44本までしか数えれなかった。・・小さい割り木を数え忘れたか?)
在家で、身も心も仏法そのものになった人間のことを、浄土真宗では『妙好人(みょうこうにん)』という。
赤尾の道宗さんも、その一人なのだが、僕には疑問があった。
[道宗(どうしゅう)]と言う名は『法名』である。
俗名は、[弥七(やしち)]という。
おおざっぱではあるが、妙好人の呼び名は『大和の清九郎』とか、『因幡の源左』とか、[俗名]で呼ばれているのが多い。・・が、『赤尾の道宗』だけは[法名]で呼ばれている。
本当に、仏門に入っていなければ、『赤尾の弥七』であらねばならない。
だけど、『赤尾の道宗』なのだ。
それを、坊守さんに尋ねてみた。「道宗さんは、本当に出家していなかったのか?」と。
すると、「・・おそらく、最後まで世俗のままで過ごされたと、私は思います。日常は百姓をされ、空き時間に、自分の家を道場として、お念仏の教えを村人に説かれた熱心な門徒さんだったのだと思うのです。・・道宗という法名で呼ばれるのは、親しみと尊敬を込めてだと思うのですよ。」と坊守さんは言われた。
(棟方志功作『赤尾の道宗報恩の像』の版画)
又、道宗さんが書き残された『心得二十一箇條』という物を読むと、僕はどうしても、道宗さんは武士に思えるのだが、そこんとこも聞いてみると、坊守さんは「私も道宗さんは、心はお武家だと思いますよ。」と言われた。
こんな話を延々とした。詳しくは、又紙芝居で描くとして、もう一つ、面白い話は、やはり『わだばゴッホになる』で有名な[棟方志功]さんが、道宗さんの大ファンであった事だ。 棟方さんの作品が、こちらのお寺にはたくさん在るのだ。
その割り木の上で寝る道宗さんの版木の本物が、こちらにあると聞き、じっくりと見せて頂いた。
「棟方志功さんと赤尾の道宗さん。・・変わった所が、何か似ている?」とつぶやいたら、坊守さんに「あなたも似て張りますよ」と笑われた。
(右:道宗の墓)
「ダムの建設で、道宗さんのお墓もお寺の境内に引越しました。大きなお墓でしょう。」と言われた。
僕は「道宗さんに、何か似合ってないような感じですね」と言ったら、「この村は、道宗さんで盛ってますから。お墓の大きさは、村人たちの自慢なのでしょうね」と言われた。
(菅沼合掌造り集落)
宿泊は、お寺の前の旅館『赤尾館』で一泊し、次の日は、『世界遺産 合掌造り集落』を見学した。
又、ここでも、道宗さんが蓮如上人にお会いする為に、雪の中を超えて行った道を見学した。
(蓮如上人も道宗さんも乗った[籠の渡し])
そして、その時、道宗さんが川を越える時に何度も乗り、蓮如上人に会いに行かれたという《籠の渡し》を見学した。
これは、蓮如上人も乗られたという伝説がある。
昔の人は、凄かったんやなぁ・・と改めて思った今回の旅行でした。
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