住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「ただ、ただ人の為に・・、行基さま」(その3:最終回

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 しかし、やがて《民衆の超人気者、行基さま》の噂を聞いた時のミカド『聖武天皇』は、「一度、行基とやらに会ってみたい」と思われ、自ら、行基さまにお会いに行かれるのでした。
 そして、行基さまのお話を聞き、行基ファンになられた天皇は、「行基菩薩よ、巨大なる盧舎那仏(大仏)を私と共に作ってはくれぬか?」とおっしゃられたのでした。
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 初めは大仏建立に、躊躇した行基さまでしたが、「大仏建立は、必ず民衆の心の大きな支えになるにちがいない!」と決心されたのでした。
 そして朝廷でさえ、集める事の出来なかったお金や人手を、『行基さまの為なら喜んで!』と、民衆は大仏制作に、惜しむことなく力を貸したのでした。
 この大仏建立開始時期は、行基さま76才でした。
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 が、行基さまは『大仏完成』を待たず、82歳でお亡くなりになります。
 奈良の大仏さまが完成したのは、行基さまが亡くなって、わずか三年後でした。
 仏の教えを伝え、苦しむ民衆を救うことに、生涯を掛けた男[行基菩薩]。
 その功績跡は、今も日本各地に残されています。
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(行基墓:生駒市[竹林寺])
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(行基像)
おわり

紙芝居:「ただ、ただ人の為に・・、行基さま」(その2)

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「道路を作り、川に橋を架け、池を作る土木工事こそが、まず、民衆を貧しさから救い出す第一歩なのだ!」と、行基さまは仏の教えを説きながら、民の生活し易い環境作りのために、土木事業を行い始めました。
 民衆も、欲のない行基さまに賛同し、皆で工事を手伝い始めました。
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 行基さまたちが、作った橋や池は、現在解っているだけで、木津川に架かる[泉大橋]、淀川の[長良橋]、大阪狭山市の[狭山池]、岸和田市の[久米田池]、伊丹市の[昆陽池]など、エトセトラ、エトセトラ・・。
 『橋の数・六つ』、『池の数・十五ヵ所』、『港の数・二つ』があります。
 又、旅人が安全に休める無料宿泊所『布施屋』なども多く設置しました。
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 そして、仏の教えを説く道場[=お寺]も多く作りました。
 近畿地方だけで、その数『行基四十九院』と呼ばれたお寺があります。
 行基さまは、それらのお寺を拠点にして、貧しくとも《仏の教え》が心の拠り所になるような教えを、民衆に説いて回りました。
 『行基さまが来た!』という噂が、一つの村で流れると、そのお説教の時間は、村の中に誰も居なくなってしまう程、お寺に人が集まったそうです。
・・がしかし、これを見て『面白くない・・』と嫉妬したのが、時の朝廷のお役人でした。
 役人は「貧乏人に、高尚な仏の教えなどは無用!」、「行基とやらは、民衆の気持ちを煽って、国への反逆を企てている!」と、行基さまを何度も逮捕しました。
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(行基菩薩の墓のある生駒市:[竹林寺]) 
つづく

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