住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「妙好人 六連島のお軽さん」(その8:最終回)

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(お寺の横に建つ『おかる同行の碑』。「でかっ⁉・・何かおかるさんに似合わないような気がした。」)
 辛い事の多かった人生を振り返りながら、夫と妻が、お互いを仏法の師匠・大先輩《善知識》と呼び、拝み合う姿は美しいものです。
 おかるさん、幸七さん、そして現道住職も・・、仏法で救われた喜びが(皮肉でなく)日記の中からほとばしっているようです。
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(おかる・幸七のお墓・・こっちの方が好きやな、僕わ。)
 こののち、おかるさんは、56歳でコレラに掛かって、安政三年にあっけなく亡くなられます。(本当にあっけないですが、これが人生で、本当の姿です。)
 ・・
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 それより少し前、おかるさんは西教寺を訪ねて、どういう気持ちか、住職に次のような歌を《一首》言い残しています。
 『亡きあとに、かるをたずねる人あらば、弥陀の浄土にいた(行った)と答えよ』。
 これが彼女の辞世の句となりました。
 そう、この歌の如く、おかるさんは浄土に還られたのです。
 おしまい

 ( ※今年の風雲急の芸能界に捧ぐ・・。)

紙芝居:「妙好人 六連島のお軽さん」(その7)

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 西教寺住職の現道師は、当時、日記を付けておられました。
 その中で、おかるさんと幸七さんのお寺に来院した時の一日の様子を書いていらっしゃいます。
 次の通りです。(注:拙僧現代語訳)

 『ある日、幸七とおかるが連れだってお寺に参って来た。
 住職である私と、三人で輪になって、茶飲み話をしていた時、何かのついでに、おかるが幸七をかえり見て、ニコニコ笑いながらこう言った。

(おかる)「この人が浮気をしなさった時は、いっそ死んでしまいたい程、私は悩みました。・・がしかし、思えばそれが御縁で、こうして尊いお慈悲に遇わせて頂けたのですから、この人が私にとっての尊い仏法の導き師匠である《善知識》です。」と言うと、幸七は恥ずかしそうに・・、

(幸七)「お前にそう言われると、何とも恥ずかしいことだが、しかし、私もこうしてお前の導きで、お念仏に遇わせてもらえたのだから、お前こそ、わしの師匠《善知識》じゃ。」と、言ったのだった。その二人の幸せそうなやりとりを聞いて、私はこう言った。

(現道住職)「おかるにせよ、幸七にせよ、こうして真剣に仏法を聞いてくれるお同行が居てくれればこそ、怠けがちな私も励まされて、お聖教を身を入れて読ませて頂ける。お前たち二人こそ、私のこよなき仏法の師匠《善知識》じゃ。」と私は言った。ちゃんちゃん。(ちゃんちゃんは書いてない。)』
と、日記に書かれています。
 つづく(次回、最終回)

紙芝居:「妙好人 六連島のお軽さん」(その6)

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 多くの心労があったのでしょう。
 おかるさんは、35歳で風邪をこじらせ、生死の境を彷徨うようになります。
 が、彼女は布団の中でも「御院さん(=住職の事)、御院さん、仏さまのお話を聞かせてください。」と、住職に法話を求めるのでした。
 そして等々、彼女の辛かった心に、阿弥陀様の慈悲がしみわたったのでした。
 文字は一字も、読み書き出来ないおかるさんでしたが、ご住職のご家族から和歌(詩)を習い、自分の心境を歌にしたのです。

『聞いてみなんせ、まことの道を 無理なおしえじゃないわいな』byおかる

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 やがて、夫の幸七が浮気を清算させ、帰って来ました。(生まれ変わったおかるさんだから、夫を許して受け入れたんやろなぁ・・余談)
 そして、元の実直な亭主に戻ったばかりか、おかるの勧めで、お寺で熱心に仏法を聴聞するようになったのでした。 つづく
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 (仲良く夫婦の名前が刻まれたおかるの夫婦墓・・お墓、探して見つけました)

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