このように、円空さんの作った仏さまは、どのような薬よりも、病人を安心させ、癒しました。
又、子供たちに抱きつかれ、握りしめられる『心のおもちゃ』になりました。
こうして、円空さんは、生涯12万体の仏像を作り、民衆の中で生き抜きました。
その円空さんの膨大な仏像群は、『民を護る護法神』。
『悪を懲らしめる憤怒仏』。
又、『合掌せずにはおられない慈悲仏』。
『握り締められる木っ端仏』、に分けられます。
それらは、現在、全国各地に五千三百体確認され、お寺や神社、又は博物館などでまつられ、展示されています。(後の仏さまは、まだ発見されていません。・・もう無くなってしまったかも。)
円空さんは、64才で亡くなりました。
その最後は、母の亡くなった長良川の川辺に穴を掘り、村人たちに見守られながら、自らその穴に入り、念仏を称えながら、土に埋もれて入定を果たしたといわれています。
それは、川の氾濫を抑える為の『即身仏』という〔生き仏〕になる行為だったのです。
そして今も、岐阜県関市の長良川の川辺に、この『円空入定塚』が、(円空さんが大好きだったという)藤の花の下に祀られています。
おしまい
(円空上人入定塚)
(塚のすぐ横に流れる長良川)
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紙芝居:「円空上人と小さな仏さまたち」(その5 最終回)
紙芝居:「円空上人と小さな仏さまたち」(その4)
又、こんなお話も伝わっています。
ある日のこと、円空さんは、飛騨の国の正宗寺というお寺に滞在し、一体の〔薬師如来〕様を彫っておりました。
その姿を、じっと窓から村の子供達が、何やらひそひそ話しながら眺めております。
やがて、仏様は完成し、本堂に安置されました。
そして、円空さんがお昼寝をしていたある昼下がりのこと。
子供達は、そっと本堂に上がり込み、仏様を皆で、外へ持ち出して行ったのでありました。
それを、薄目を開けながら見ていた円空さんでしたが、何も言わず、又眠ってしまいました。
いったい、仏さまはどこへ運ばれて行ったのでしょう?
実は・・、
仏さまは、その頃、川の中で子供達と一緒に遊んでいたのでした。
つまり、泳げない子供の〔浮き輪〕代わりになっていたのです。
しかし、それを偶然見かけた一人のお爺さんが、びっくりして、
(じっちゃん)「こりゃーっ!お前達は、何と言う罰当たりなことをするのじゃぁ!すぐに、仏さまをお寺に返して来い!」と、すごい剣幕です。
叱られた子供達は、しゅんとして、泣く泣く仏様をお寺へと戻しました。
・・しかし、その日の夜、その怒ったお爺さんが、高熱を出してうなされることになったのです。
そして、お爺さんの夢枕に、昼間の〔薬師如来〕様が立ち、
(お薬師様)「お前は何という余計なことをしてくれたんじゃ!わしは、子供たちと楽しく遊んでおったんじゃぞ!」と、怒って出て来られたのです。
それを聞いて、お爺さんはびっくり!
(じっちゃん)「すっすっすみませんでした、仏様っ。そうとは知らず、わしが悪うこざいました。」と、必死で謝りました。
すると、仏様は静かに消えて、不思議なことに、熱もスッと下がったのでした。
次の日、このお爺さんは、お供え物を持って、お寺にお参りに行きました。
(円空)「ほおっ、そんなことがあったのか。わしの彫った仏さまは、子供たちと遊ぶのが好きなんじゃよ。爺さん、村のみんなに伝えておくれ。これからも、病の者や、一緒に遊びたいという子供たちが居ったら、遠慮のぉ、仏様をお寺から持ち出しておくれと。・・仏さまも、きっとそれを望んでおいでじゃろうて。」と、言って円空さんは手を合わせました。
そう、円空さんの彫られた仏様は、常に庶民と共にあったのです。
・・ここで少し、余談。
僕はこの話を以前、テレビのまんが「日本昔ばなし」で見た。
その時は、『これは円空さんが彫った仏様である』というエピソードがカットされていた為、このストーリーが納得できなかった。
「お爺さん、正しいやん。なんでエライ目に遭わなあかんのん?」と。
しかし、この仏様が円空さんが、彫ったものなら、はなしが違う。
円空仏は、常に庶民と共にあった。
子供たちの、遊ぶ人形代わりにもなっていたそうで、よく小さい子供に背負われていたそうだ。(何とも微笑ましいではないか)
僕は、常日頃から、何年に一回かの、有名寺院の秘仏の『ご開帳』というのが嫌いだ。
仏さまは、いつも拝めて、(壊さないようにしながら)触っても良い、近くでまじまじと見ても良いと、そう思っているのだ。
だから、うちのお寺では、なるべく、自由なカタチで仏様を観て頂くようにしている。
うちの『阿弥陀様』も、それを望んでおられるような気がするのだ。 これでイイのだ。つづく