住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その6 最終回)

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 こうして、泥沼になっていた『狭山池』は見事に甦りました。
 池の水は、多くの下流地域へと流れ出て、今、豊かに農作物を育み、実らせていこうとしていました。
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(農夫)「良かったのぉ、おっかぁ。今年は豊作や!これで飢え死にせずに済むなぁ。有り難いこっちゃ。」

(農婦)「ほんま、これも皆、重源さまのおかげやわぁ。・・あぁ、それと、あの古墳の石棺の仏さんのおかげも忘れたらあかんねぇ。」

(農夫)「そやなぁ。ところで、重源様はその後、どないしてはんねんやろ?・・何か、『あ~っ忙し、あ~っ忙し』っちゅうて、堤が出来たらすぐに帰ってしまいはったもんなぁ。」

(農婦)「へぇ、何か風の噂によると、新しいお寺を建てる仕事を任されたっちゅう事で、めっちゃくちゃ忙しいらしいですよぉ。」

(農夫)「へぇー、あのお坊さんは、確か82才やったなぁ。いったいいくつまで仕事しはんねやろ?」

(農婦)「ほんま、ひょっとして、不死身とちゃいますやろか?」

(農夫)「そんな、あほな。」

(農夫婦)「はっはっはっはっ!」

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 それからのち、時代を経て、幾度もこの『狭山池』の堤は改修されることになります。
 この重源和尚の伏せた『石棺』は、江戸時代初期、再び『取水塔』の石積みとして、再々利用されることになります。(「モッタイナクな~~い!」・・と偉いさんが云いそう)

 そして現在。
 平成の大改修をきっかけに、再び〔池の底〕から姿を現したこの『石棺』は、今ようやく、そのお役目を終えたかのように、堤の直ぐ北に建つ『狭山池博物館』で、静かに展示されています。

 おしまい

紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その5)

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(重源)「よっしゃ!皆の衆、石棺を堤の底へ、縦列に並べて伏せるんや!」と、重源和尚は声を掛けました。
 こうして〔石棺〕は、堤の〔取水部〕と〔放水部〕に、〔木の樋管〕を挟んで並べられました。(全部、石棺を並べるには、とても数が足りんかったんやね。・・だから、水の勢いが激しく壊れやすい〔入り口〕と〔出口〕の部分に頑丈な《石棺》を並べたんやね。)
 そして、やがて土が盛られ、石棺は堤の中に隠れました。
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 そして、次に重源和尚は、
(重源)「よしっ、次は《取水塔》を作るぞ!
 《取水塔》さえあれば、池の水を抜いて流したり、止めたりすることが自由にできるからな。・・いわば《木の栓》や。あちゃら語でいうと、スイッチや。石棺の口の開閉装置やな。」と言って、皆で《取水塔》を築きました。
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 この工事は、建仁二年(1202年)の二月七日より始まり、同年四月二十四日に終了しました。
 つまり、約三ヶ月間の工事でした。(早っ)
 工事を終えた民衆は、塞き止めておいた川の水を一気に、狭山池全体に流し込みました。
 「おぉーっ!」という歓声が沸き起こり、狭山池は水で満ち溢れてゆきました。
 そして次に重源和尚は、
(重源)「よし、一度、石棺を使って水を堤の向こうまで流してみよか。」と言い、取水塔の栓を上げる合図を出しました。
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 すると、池の水は石棺を通って、堤の向こう側へ、勢いよく流れ出ました。
 「おぉーっ」という又もやスゴイ歓声が巻き起こりました。
(重源)「よし、これでエエ、これでエエ。
 石棺の仏さんも、これできっと喜んでくれよう・・。」と、民衆の大歓声の中、重源和尚はひとり呟いたのでした。 つづく(次回、最終回)

紙芝居:「狭山池の底の石棺」(その4)

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 重源和尚の提案に、村人たちは皆、困惑してしまい、集会が開かれることになりました。
(村の長老)「・・たたりがある!きっとたたりがあるでぇ!墓など荒らしたらあかん!石棺を使うなんてとんでも無いこっちゃ。わし等は反対や!!」と、村の長老は叫びました。
 その時です。
 子供を抱いた一人の母親が、突然立ち上がり、
(母親)「わては賛成や!
 狭山池の水が溜まらんかったら、今年の夏は、必ず田んぼの水が干上がってまう。そしたら、この子供たちは、食べる物がなくて、間違いなく飢え死にや!
 ・・そんなん、母親として見てられん。
 古墳の石棺に眠っとる人って、きっと人の上に立っとった偉いさんやろ!?
 きっと、生きてるわて等の気持ちを理解してくれるに違いないよ。・・わてはそう思う。」と、言ったのです。
 それを聞いて、みんなは「そうや!」、「そうや!」、「そらそうや」と賛同し、多数決で『石棺』を引っ張り出すことに決まったのでした。(・・母は強し)
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(村の民)「よいしょ、よいしょ、引っ張れ、引っ張れ!南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・」と、こうして、民衆によって二十個近い『石棺』が古墳より引っ張り出されました。
 念仏を称えながら、男も女も皆協力し、力を合わせて石棺が運び出されたのです。
 それを見つめながら、重源和尚は手を合わせながら、つぶやきました。
(重源)「古墳の主よ。すまんが、生きとるわし等の為に寝床を譲ってくれ。貴殿たちの石棺は、必ず生きとる人間の役に立つんやから・・。」と。
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 そして、運び出された『石棺』は、今度は職人たちによって、丁寧に〔上の部分〕と〔下の部分〕の一部が削り取られ、水の通る道《水路=樋》へと変わっていったのでした。
 そして、この完成した石の管《石樋=水路》は、又皆で、改修途中の堤へと、曳かれて行くことになったのでした。

(ここで余談ながら、一つの疑問にぶつかる。石棺は引っ張り出され加工された。・・それでは中に眠っていた豪族達のご遺体は、いったいどうなったのか?・・先日、うちのお寺に来て下さった『狭山池博物館』の学芸員さんにその事をお尋ねしてみたのだが、「調査しても解らない」という答えだった。・・が、僕は思う。すべてにおいて抜かりの無い重源和尚のことだ。民衆の事を考えて、どこか別の場所にきっと手厚く埋葬したに違い・・と。) つづく

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