住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その5)

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 中甚兵衛は、突然、奉行所から呼び出されました。
 なんと、そこには、時の堤奉行(一度聞いたら忘れられない名前)『万年長十郎(まんねんちょうじゅうろう)』が、甚兵衛を真剣な面持ちで、待って居たのでした。
 (万年さん)「甚兵衛よ、ようやくお上は、河内平野の洪水被害を無くす方法はただ一つ、『大和川の付け替え』しかないという事に気がつかれたまんねん。
・・甚兵衛、お前の考えた案は正しかったのだ!今度こそ、幕府はどんな地元の反対意見が起こっても、断固として、大和川の付け替えを行うでおまんねん。
 ・・さて、甚兵衛。お前ほど大和川の付け替え策に詳しい者は居ない。これからワシと一緒に付け替え工事の陣頭指揮を一緒にしてくれないかまんねん?」と、言われました。
 それは、あまりに寝耳に水の話だったので、甚兵衛はその場で、感激の余り、泣き崩れてしまったのでおまんねん。
 (甚兵衛)『ああっ、これで長年の苦労が報われる・・』と、甚兵衛は心の中でつぶやきましたでおまんねん。(もうエエか。)
 甚兵衛が、初めて江戸に訴え出たのが、19才の時。
 そして今が、65才。幕府に認められるまで46年間も掛かったのでした。(ほぼ半世紀やおまんねん・・まだ言うか)
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 時に元禄17年〔西暦1704年〕、(余談ながら、我寺『観念寺』が出来たのは、元禄16年と伝わっておます。ちなみに赤穂浪士の討ち入りは元禄15年でっせ。)大和川の付け替え工事はついに始まりました。
 幕府の命令により、幕府が直接受け持つ工事区域の他、姫路藩、岸和田藩、三田藩、明石藩が選ばれ、工事を受け持つことになりました。
 これらの藩は、お互いが意識し合い、その工事スピードを競った為、その結果、付け替え工事はなんと〔七ヶ月半〕で完成したのでした。(早っ!)
 この時、甚兵衛は大きくなった息子(遅くに出来た子供(男の子)だったらしい)を従えて、工事現場を検分しながら指揮して回ったという事です。(万感の思いやったやろなぁ・・)
 結果として、この工事はのぺ245万人を動員し、およそ71500両(今でいうと、およそ143億円)が費やされました。
 つづく
 

紙芝居:「大阪の川の流れを変えた男 中甚兵衛ものがたり」(その4)

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 やがて、中甚兵衛が初めて江戸に訴え出てから、40年を越す年月が流れようとしていました。
 今や、甚兵衛は65才です。
 かつての仲間も、極わずかになっておりました。
 ・・がしかし、甚兵衛は、まだ諦めてはおりませんでした。(・・僕は思う。ある意味、お百姓さん達からの訴えを聞くことが『庄屋』の仕事だったので、甚兵衛は『川の付け替え願い』から、逃げられんかったんやろなぁ・・と。)

 (甚兵衛)「・・毎年続く、洪水被害。これやったら、米も作物も何も収穫でけへん。川の付け替え工事が、結局出来へんねんやったら、何か他の方法(改善策)を考えなあかんなぁ。」と、甚兵衛はずっと思案していたのです。
 そんな或る日、突然、甚兵衛は奉行所から呼び出されたのでした。 ・・どうなる甚兵衛、運命やいかに! つづく

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