住職のつぼやき[管理用]

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出前は、愛知へ (後編)

ファイル 1048-1.jpg(お城から見た岡崎市)
 次の日、お寺での法話の(僕の)出番は、お昼からの為、午前中、岡崎市内を散策する。
ファイル 1048-2.jpg(家康誕生の地:岡崎城)
 最初は、宿泊したホテル近くにある、岡崎城へ。 
 ここは、徳川家康誕生の地であった。(恥ずかしながら知らんかった・・)
 ちなみに岡崎公園内には、家康産湯の井戸などもあった。
 又、余談ながら、お城の中では『(テレビアニメ)エヴァンゲリヲンと日本刀展(=アニメに登場した刀を実際の鍛冶師が製作した物を展覧)』という催し物が開かれていた。
 そのため、若者たちが結構、朝早くから来場していた。
 お城のスタッフに聞くと「お城に若いもんを呼ぶには、ヒットアニメの力が必要なのです。」と、おっしゃっておられた。
ファイル 1048-3.jpg(八丁味噌の郷)
 さらに、そこから歩いて、「八丁味噌の郷(さと)」にも、見学に行く。
 ここは、NHKの朝の連続テレビ小説『純情きらり』の舞台地となった味噌蔵である。(俳優さん達の写真が飾ってあった)
 僕は「なぜ、八丁味噌っていうのですか?」と(割とマッチして美味しい)八丁味噌アイスを食べながら聞いた。
 すると、『こいつ寒いのに、アイスを食べるなんて変な奴やなぁ・・』というような顔をされながら味噌蔵の職員さんは、「この大きな味噌の生産蔵は、昔、岡崎城より、西へちょうど八丁(約870m)行ったところのこの地にあったのです。だから、『八丁味噌』と呼ぶようになったのですよ。」と教えてくださった。
 と、いうことは、もし九丁、行ったところにこの生産蔵があったのなら、今我々は『九丁味噌』と呼ぶことになったろう。 又、十一丁目なら、『十一丁味噌』。・・二十三丁目なら、『二十三丁味噌』となった・・のか。(名前ってそんなもんなんやなぁ・・余談でした)
ファイル 1048-4.jpg(玉泉寺さま)
 さて、そして僕はそこから車で十分ほど行った、今回の目的地『浄土真宗大谷派 玉泉寺』さまに向かう。
 こちらは、由緒のある立派お寺だ。(その縁起によると、大友皇子の時代に創立されたお寺らしい。・・気が遠くなるような昔だ)
 僕はそこで、親切で若い御住職夫妻にもてなして頂きながら(恐縮しました)、大阪弁で「大阪から来ましてん。・・皆さん、よろしゅう頼んまっさ」と檀家の皆さんに、お話させて頂きました。
 こんな、変わり者の僕を、よくぞお招き下さいました。
 ほんまに、有難うございました。・・もう、うれしゅうて、いかんわぁ。又、良かったら、いつでも呼んでちょう。合掌だがや。
ファイル 1048-5.jpg(本堂)
玉泉寺さまのホームページ(ブログ)は、ここです。    http://gyokusenji.seesaa.net/

出前は、愛知へ (前編)

 昨日、おとといと、愛知県岡崎市の『浄土真宗(大谷派)玉泉寺』さまの定例法座に、ご法縁を頂戴し「紙芝居法話」に行かせて頂いてきた。
 こちらのお寺へは、遠方でもあるし、大雪の恐れもあった為、一泊で行かせて頂く事にした。
 6日の夕方、車は大阪から(大雪に悩まされることなく)無事、愛知県の岡崎市に到着。
 この時、まだ時間にゆとりがあった為、(時間を有効に使おうと)そこから大急ぎで、隣の市の知多半島にある半田市へと向かう。
 半田市に何があるかというと、僕の好きな(『ごんぎつね』や『手袋を買いに』の作者こと)〔新美南吉〕さんの記念館があり、前から調べたかったことを、現地で確認したかったのだ。
ファイル 1047-1.jpg(『新美南吉記念館』)
 それは、僕も作った紙芝居の一つの『でんでんむしのかなしみ』という紙芝居に、仏教的背景があったのか?無かったのか?、又、あるとすれば、そのモデルは『ゴータミー』という子供を亡くしたお母さんの話を元にしたものなのか?・・をそれを調べたかったのだ。
 しかし、結果的には解らなかった。
 記念館の職員さんにお聞きしたのだが、「南吉さんの作品に仏教的背景があったのは事実です。しかし、『でんでんむしのかなしみ』という作品が、『ゴータミー』の話を元にしたものかは解りません。」とのことだった。
 しかしながら、いくつかの収穫はあった。それは、南吉さんは、浄土真宗の門徒であり、不幸続きの幼い頃、近くの真宗寺院に通って法話を聴いていたという事実である。
 おそらく、南吉さん自身が抱えていた病気の事(29才で喉頭結核のため永眠。法名『釈文成』)も、作品に反映されていたに違いないが、若き日に和尚さんから聴いた仏教法話が、その作品に多いに反映したと思われるのだ。
ファイル 1047-2.jpg(生誕百年『ごんぎつね』モニュメント)
 僕は『ごんぎつね』の舞台地、『中山』に建った記念館を後にし、南吉さんの生家へ向かう。
ファイル 1047-3.jpg(新美南吉生家)
 「なんと、小さなお家だろう。」が、僕の正直な感想であった。
 「ここで南吉さんは、畳屋(のち下駄屋)を営む父親、(相性の悪かった)継母とともに育ったのだ。・・この狭い空間で、その多感な(児童文学の)心を育んだのか」・・と、今も自由に入れるその(誰も居ない)生家に一人入って、僕はつぶやいたのであった。 つづく
 
 

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