住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「室戸台風襲来の日」(後編)

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・・やがて、雨の量は300ミリを越え、雨と海水で大阪の町は水浸しになった。
 その余りに急な水位の上昇に避難が間に合わず、大阪湾一帯で溺死した人は、1900人を越えたんや。
 結論から言うとな、この台風の死者・行方不明者は、3036人。
 浸水した建物は、401,157件やってんて。
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 それでな、大阪にはその頃『外島(そとじま)保養院』という〔ハンセン病〕患者さんの療養所があったんや。
 それがこの台風の高波で、入所者の方や職員、そして職員家族187人が犠牲になり亡くなりはった。
 その後、後に残ったに入所者の方がたは、岡山県の〔邑久(おく)光明園〕という療養所設立と共に、そこに移りはることになったんやて。(今の関西人には、あまり知られてない事やなぁ。) 
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 痛ましかったんは、木造校舎やった〔小学校〕の崩壊や。
 実に、44校が潰れてしもたんでっせ!
 今とは違って、台風で『臨時休校』にはならんかったもんで、この時、校舎にはたくさんの生徒たちがおり、大半が下敷きになって犠牲になってしもたんや。
 この『吹田豊津小学校』もその一つや。
 ここに〔吉岡藤子〕先生という、若い女の先生が居られてな、授業中、もの凄い暴風雨で校舎が崩れてしもたんや。
 先生と子供たちは、必死で逃げだそうとした・・しかし、
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 間に合わんかった。
 あっと言う間に、木造校舎は崩れてしもて・・、
 その瓦礫の中から、吉岡先生の遺体は発見されたんや。
 先生は三人の生徒を守り、覆う形で亡くなって居られたそうや。
 しかし、奇跡的に三人の子供たちは、皆無事やったんやて。
 そんな先生がこの当時、仰山おってんなぁ・・。
 そんな話が、皆に感動を与えたんや。
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 それで全国から、仰山義援金が寄せられて、大阪城公園に『教育塔』という慰霊塔が建てられたんや。
 そして今でも、ちゃんと祀られてるんや。(余談ながら、僕は子供の頃、自転車でよくこの教育塔の下まで遊びに来ていた。なぜだか解らんが、ちょっとこの塔の形が不気味に感じた。でも、そう感じたのは僕だけではなかったようで、弟も友達も同じことを言っていたのを思い出す)
 
 そろそろ、この台風の話も終りにせなあかんなぁ・・。
 この室戸台風は、ほんま仰山の犠牲者を出した。
 その大きな要因の一つは、市民へのラジオなどを使っての『警報』が、わずか2回しか出なかったことらしい。
 こののち中央気象台は、『警報』以外に、『注意報』も発令することになってんて。
 何か大きな犠牲があって初めて、それが教訓となり、何事も進歩してゆくんやなぁ。
 でも、こんな仰山の犠牲者を出した台風の話は、これからもずっと語りついでいかなあかんと思うわ。・・ほんまに。
 おしまい

 (あとがきにかえて)
 昨年、ある老人ホームで『大阪に津波が来た日』という紙芝居を上演した時、一人のご老人から、「津波も恐いけど、大阪にはもっと恐ろしい『室戸台風』というのが襲来したんやで。その時、わしの家も浸水したし、四天王寺の五重の塔も折れたんや。」と云われた。
 僕は「ほんまでっか?」と言ったら、「調べてみい。その当時の新聞も切り取ってあるで。・・そして、その紙芝居も作らなあかんのとちゃうか。」と言われた。
 それから僕は、大阪の台風被害の事をインターネットを使って、随分調べた。 このご老人の言われた通り、五重の塔は崩壊していて、驚いたのはその瓦礫の木片から、五重の塔のミニチュアを作って配ったという話も知った。又、その実際、ミニチュアをもらったというお婆ちゃんにも出合って、その当時の話を聞いた。
 そしてもっと驚いたのは、〔ハンセン病〕療養所が大阪市内にあった事である。その規模はとても大きかったようで、その写真も手に入ったのでそれを参考に絵を描いた。もし、この台風が無ければ、この療養所は今も大阪市にあり、この病気への皆の理解度はもっと進歩し、社会的差別意識は、又違ったものになっていたのではないかとも思った。・・残念である。
 又、この紙芝居の製作調査をしている時、この台風による浸水被害に遭われた一人のご老人に出会った。
 その方は、この時、水に浸かりながら、流れて来る膨張した死体や、流木をいかに避けて逃げるかだけを考えて、悪いと知りながらも、その遺体を棒で払いのけ、傷つけながら逃げたとお話して下さった。
 お話を聞きながら、僕は昨年の東北の津波の事を思い出した。大阪でも同じような体験をされた方があったのである。
 あとがきが長くなった。
 これでこの紙芝居の話は終るが、毎回、色んな紙芝居を作る度に、僕の心は大きく揺さ振られる。
 特に今回の台風の話は、直接体験された方からお話を伺いながら作ったので、途中何度も身震いして、描くのも躊躇うことが多かった。 
 そのお話を伺っていたご老人の言葉に、特に印象に残った言葉がある。それを最後に書いて終わりたい。
 「わし等老人は、この齢まで生き残ったのが奇跡のようなもんなんやで。・・まず、こんな大きな台風から生き残った。そして戦争からも生き残った。妻は空襲から生き残った。その後、飢餓からも生き延びた。そして、あの阪神の大地震。・・よう生き延びたわ、ほんま。奇跡やなあ。」と。
 この奇跡のように、生きて来られたご老人たちの生の体験談を聞ける僕も、奇跡に遭遇しているのかもしれない。

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