住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「弘法大師 空海さま」 (後編)

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 日本に帰国した〔空海〕さまは、嵯峨天皇の後押しで、京都の〔東寺〕を任され、密教を広めました。
 又、誰でも入れる学校『綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)』を作り、子供たちに給食など、無料で配ったりしました。
 さらに、弟子たちと東奔西走し、民衆の救済、社会事業の展開とめざましい活躍をされました。
 故郷の讃岐の国、満濃池(まんのういけ)の治水事業もその一つです。(ついでに余談ながら、唐から〔うどん(みたいな食べ物)〕も持って帰って来て、空海さんが作り方を教え広めたという伝説もある。・・だから、讃岐=うどんなのかぁ・・だが、あくまでも伝説である。)
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 そして和歌山県の高野山も、空海さまが〔密教〕の根本道場の地として、開かれた聖地です。
 この高野山にて、62歳で、空海さまは亡くなられます。
 その時、朝廷からも多くの弔辞が贈られ、国を挙げて、空海さまの死(入定)を悲しまれます。
 その86年後、醍醐天皇から『弘法大師』という号を賜るのです。

 話は変わりますが、今尚、空海さまを慕って、高野山にはたくさんの方がお参りに来られます。
 お参りの人が称える『南無大師遍照金剛(なむだいし へんじょう こんごう)』というのは、
 空海さまが若い時、太陽が満遍なく照らすのを見て、自分は(ダイヤモンドのような光の輝き=金剛)太陽みたいになりたいと思った、まさに『太陽のように遍(あまね)く照らす空海さま、ありがとう!』という意味なのです。(あったかハイムさんみたい・・)
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 空海さまは、あらゆる分野で活躍されました。
 あの『色は匂えど散りぬるを 我が世 誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず』という、『いろは歌』も、空海さまが諸行無常という仏教の教えを、子供にもわかり易く伝えようと、作られたものだと伝わっています。
 医療・教育・建築・土木など、あらゆる分野でその才能を発揮された、弘法大師:空海さま。
 そして、今、流行の『四国遍路八十八ヵ所霊場めぐり』も、空海さまの足跡を慕ってめぐる旅でもあるのです。 おしまい 
 

紙芝居:「弘法大師 空海さま」 (中編)

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真魚青年、いや、もう〔空海〕様とお呼びしましょう。
 空海さまは、滝に打たれたり、狼のいるような恐ろしい森の中で、幾日も修行を続けられました。
 百日もの間、百万遍の真言を称え続けるという『虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)』という行を修められたり、又、室戸岬に回り、同じ行を繰り返されました。
 その室戸岬の御蔵洞(みくらどう)という洞窟で、この行をしていた時、不思議なことが起こりました。
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 ある朝、谷がこだましたかと思うと、明けの明星が、空海さまの口の中に飛び込んだのです。
 「何じゃ、これは!・・この身体中、みなぎる不思議な力は!(アリナミンVXが効いたのか!・・とは言わず)」と、空海さまは感動に身を震わせました。
 この時、空海さまは、今まで見えてなかった物がはっきりと見えたような気がしたのでした。
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 四国で不思議な体験をした空海さまは、都に戻ると、『秘密仏教=略して〔密教〕』に関心を持たれ、猛勉強を再び、開始されました。
 そして、「もっと深く『密教』を学ぶには、やはり正統:密教の伝わる唐の国へ渡って学ぶしかない!」と、一大決心をします。
 運良くその頃、遣唐使船が嵐に遭い戻って来ていて、新たに乗船する人を募集していました。
 「今しか、機会はない!アタックチャーンス!」と、空海さまは頭を剃り正式な僧侶(仏弟子)となり、縁を頼って、遣唐使の一人に加えてもらうことになったのでした。
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 こうして空海さまは〔遣唐使〕として、唐の国に渡ることになりました。
 長崎の港を出た〔遣唐使船〕は、途中、たいへんな嵐に遭い、海を漂いながらも、なんとか無事に大陸に到着しました。
 こうして、空海さま一行は、それから徒歩で唐の都:長安に入ったのでした。 
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 長安に着いたのち空海さまは、インドのお坊様から〔インドの古語:サンスクリット語〕を学び、さらに密教の正統を継ぐ〔青龍寺〕の『恵果(けいか)』和尚のところに入門しました。
 そして1000人を越す弟子の中から、恵果和尚は、なんとっ、空海さまを選び、密教のすべてを伝授されたのでした。(こののち、中国仏教は、時の権力者によって滅ぼされます。・・ひょっとすると、恵果和尚はその事を予知していて、すべて丸ごと、日本へ移したのかもしれません。・・余談でした。)
 こうして空海さまは、密教の正統を受け継ぎ、日本へと帰国するのでした。 つづく 

紙芝居:「弘法大師 空海さま」 (前編)

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 『おだいしさま』と親しまれる〔弘法大師 空海〕様。
 この〔弘法大師〕というのは、醍醐天皇から贈られた〔おくり名〕です。
 お坊さまとしての名は〔空海(くうかい)〕とおっしゃいます。
 それでは、この〔空海〕様とは一体どのような御方だったのでしょうか?この紙芝居を通して、(前半生を中心に)見て頂きましょう。
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 空海さまは、今からおよそ1000年以上も前、四国は讃岐の国(今のうどん県、いや香川県)の『佐伯(さえき)氏』という豪族の御子として生れました。
 幼名は『真魚(まお)』といい、小さい頃から大変利発な少年だったそうです。
 真魚少年は、一族の大きな期待を背負って、11歳の時、京の都に出ます。
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 都で真魚少年は、おじさんから勉強を教わりました。
 そして猛勉強の末、18歳で当時の日本でたった一つの大学に入学しました。
 真魚少年は、地方豪族の子としては、まずは無難なエリートコースに乗ったのです。
 しかし授業に飽き足らず、大学を抜け出して、いろいろな所に勉強に行き出しました。(今と一緒なんやなぁ・・。)
 その内、だんだんと仏教に興味を持つようになりました。
 又、自然の中にこそ、学ぶべきものがあると思い、あちこちの山の中を散策して周りました。
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 真魚青年が、大学に行かなくなったので、おじさんは怒りました。
 しかし真魚青年は、『大学の学問がいったい何の役にたつのか・・?』と毎日、悩んでいたのです。
 そしてついに大学を辞め、真魚青年は一修行者となって、故郷の四国に帰り、山の中で厳しい修行を始めたのでした。
『悟り』を求めるために・・。
 ところで、真魚青年が『空海』と名を変えたのは、この四国での修行時代であったと伝わっています。 つづく

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