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紙芝居:「唯円房の恋」の『恋』について、もうちょっと考えてみる

 倉田百三氏の戯曲「出家とその弟子」を紙芝居にして、今、『全三部作』で掲載している。
 その第二部「唯円房の恋」を先日、発表し終えたが、もうちょっと(考えてみたい事があって)余談として補足したい。
 
 この「紙芝居」の中で、親鸞聖人が弟子の唯円房に言う。
(親鸞)「この世で、罪を作らぬ〔恋〕はない。」・・と。
 ここで、作者の倉田氏は、恋とは〔罪〕なものだと言っている。
 又、最後に、親鸞聖人の口を借りて「恋の中には、我儘(わがまま)がある。恋の邪魔をするものを敵にしてしまう。恋ほど〔排他的〕なものはない。」と、言っている。
 (納得できるような気がする。)
 
 ・・しかし、又、その逆のような事も言っている。
(親鸞)「恋は〔信心に入る通路〕だとわしは思う。 
 恋する時、人は不思議に〔純粋〕になる。
 つきつめれば、皆〔宗教的意識〕になるのじゃ。」・・と。

 これを統合すると、恋=罪なもの=我儘なもの=排他的なもの=悪いものになる。
 が、しかし、恋=信心に入る通路=純粋なもの=宗教的意識への門=善いもの。 ・・でもある、という。
 つまり、生涯に渡って幾多の激しい恋を経験してきた〔倉田百三〕氏は、恋とは、善でもあり悪でもある、長所もあれば短所もある、と考えておられたのか。
 覚せい剤の麻薬のような、使い方によっては痛み止めの役割をするモルヒネのような・・、それが恋だと言っておられる・・のか。
 
 しかし、これは、宗教小説(戯曲)である。
 であるから、宗教(信仰)とは(恋のようなもので)、ある意味、排他的な我儘なものであるが、これ以上、純粋なものもない・・と言っているのか。
 自分でも、何を言っているのか解らんような気持ちになってきたが、宗教の持つ《恐さ》と《素晴らしさ》は、宗教を仕事としている自分には少し理解できる・・ような気がする。

 ・・倉田氏は親鸞聖人に、こうも言わせている。
(親鸞)「わしは(恋を)良いとも、悪いとも言わん。
 ・・が、ただし、恋する時は〔一筋〕にやれ。わしが言えるのはこれだけじゃ。」と。
 自分勝手な結論であるが、恋も信仰も〔一筋〕にやる!・・そうすれば、その奥に潜む〔悟り〕のようなものが見えてくるというのか。  
 (恋と信仰の)すべてにおいて、「ちゅ~と半端」な僕には、何もわからない。
 一筋の難しさを思う・・。

 

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