住職のつぼやき[管理用]

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被災地に立つ その4

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 女川町の海は、今も沈んだ船の頭や、ガードレールの折れ曲がった部分が、海から顔を出していた。
 又、海岸沿いの家々は、すべて(と言って良いのではないか?)廃墟(瓦礫)となっていた。
 仮設住宅はあちこちに建ち、すでに入所された皆さん方が、外で雑談されたり、お掃除されたりしておられた。
 そして、車は爆撃を受けた後のような小中学校の建物の横を通り、牝鹿(おしか)半島に入る。
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 宮城県は、避難所がもうすべて閉鎖されているとマスコミなどではいわれているが、牝鹿半島の「寄磯地区」寄磯小学校(学校は無事)には、まだ体育館が「避難所」として使われていた。
 こちらに到着した時、校庭前でしゃがんで雑談されていたおばちゃんたちが、僕等を見つけて集まって来られ、訴え始められた。
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 何人ものおばちゃん達の〔東北弁〕での訴えなもので、半分も意味は解らなかったが、その勢いから、言わんとしていることは伝わってきた。
 「私たちは、行政から忘れられている。・・ここで私たちが生きている事を、みんな忘れないで欲しい。・・生活必需品(たとえば泥を落として家に入りたいので玄関マットが欲しいとか)が、不足しているからもっと欲しい。・・仮設に入るのは嫌で、皆、親戚や友達の流されなかった家にやっかいになっているので、気をつかう。」などの意味だった思う。・・たぶん。
 ここでは、衣料品(シャツ・靴下・下着)などを持ってきたので、僕はダンボールをひっくり返しテーブルにして、そこで店開きし、皆さんに持っていってもらった。「大阪から来ましてんで。さぁさぁ、皆さん、必要な物、好きなだけ持ってってや~」と僕は叫んだ。 それでバーゲンセールのように、あっという間に商品は無くなっていき、僕はある意味、ほっとした。
 奥のテントには、埼玉県から来られたいた「弁当炊き出しボランティア」さん達がおられ、さばカレー弁当を「ご苦労さん、余ってるから持っていって」と言われてご好意でもらった。
 その後、僕達は〔石巻市〕に向かった。 つづく

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