住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『良寛さま』 その2

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 お寺に入った〔良寛〕さまは、一生懸命に修行しました。
 毎日、お経を読み、座禅を組み、托鉢に出ました。
 そして、さらに修行をすべく、新潟から岡山の〔円通寺〕というお寺に移りました。
〔円通寺〕には、《国仙老師》という偉い師匠がおられ、その師の元で〔良寛〕さまは、さらに厳しい修行に励んだのでした。
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 岡山に移り、いつしか11年が過ぎようとしておりました。
〔良寛〕さま、33才の時、ついに《国仙》和尚から『印可状』を授けられる時がきました。『印可状』というのは、「禅の奥義に到達した」という証です。
 その内容を要約すると「・・良寛よ、そなたは一見愚かに見えるが、どうしてどうして、お前の行く道は、広々とした良い道だ。そんなお前の到達した素晴らしい境地は、誰も見取ることは出きないが、ワシは褒美として、杖を授けよう。これで、思う存分歩き回れ。到る所、お前の世界が出来るであろう・・。」というような内容のものでした。
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 そののち、〔良寛〕さまは、岡山を離れ、諸国を旅して回ります。
 そして40才の頃、ふるさと『新潟』に帰りました。
 すでに両親は亡くなっておりましたが、〔良寛〕さまにとって、故郷こそが、心の休まる場所であったのかもしれません。
 住む当てのないまま、〔良寛〕さまは、あちこちのお寺で寝泊りしましたが、47才の時、『国上(クガミ)山』の〔五合庵〕という空の庵を見つけ、そこを腰の落ち着ける場としたのでした。
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「良寛さまー、今日は何して遊ぼう!」
「・・そうじゃのお、まりつきはどうじゃ。ワシはうまいんじゃぞう、見ておれ・・。『おらが殿様・・焼餅好きで、・・夕べ九つ、今朝また七つ、一つ残して、たもとに入れて、馬に乗るとて、ポタリと落とし・・・、』・・ありゃ、しもうた。ホンに落としてしもうた!」。「良寛さま、一貫貸しー!」と、このような調子で、毎日毎日、〔良寛〕さまは、子供達と遊んで過ごしました。
 子供達と一生懸命に遊ぶのが、〔良寛〕さまの修行だったのかもしれません。 又、大人たちも子供の面倒を見てもらえて大喜びでした。 つづく

紙芝居:『良寛さま』 その1

 昔々の江戸時代・・。
 これは子供達と遊ぶことが大好きだった『良寛』というお坊さまのお話です。
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 良寛さまは、越後の国、今の新潟県・出雲崎(イズモザキ)という海岸沿いの村で生まれました。
 良寛さまの本名は、〔山本栄蔵〕といい、父・山本以南、母・おのぶとの長男として生まれました。
 山本の家は、《神官》と《大名主》を兼ねていました。
《名主》というのは、今の『村長』とでもいいましょうか、村の中心的な存在で、『お代官』と『漁・村民』との〔調停役〕などの難しい仕事をしなければなりませんでした。
 〔栄蔵〕こと、のちの〔良寛〕は、内気で愚直で、融通の利かない性格でしたので、この仕事を継ぐには、余りにも不適格でした。
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 〔栄蔵〕は16才になりました。今や立派な『若名主』です。・・しかし、仕事はうまくいきません。
 ある日、漁師たちが、〔栄蔵〕の家にやって来て言いました。
「栄蔵様、今年の漁は不漁でした。なんとか、税金を負けてもらえないかと、お代官様にお願いしてもらえませんか?」と。
「はい」と返事をして、代官屋敷に向かった〔栄蔵〕は、漁師たちの訴えをそのまま『お代官』に伝えました。
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「何をぬかすか!一文たりとも負けんわい。栄蔵、あやつらは本当は金を隠し持っているのだぞ!」と、お代官は〔栄蔵〕にそう言いました。
 それを聞いて、〔栄蔵〕は、漁師たちに〔お代官〕から言われたままを伝えたので、漁師たちは返って怒りを増し、両者の関係は一層、悪化していったのでした。
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 このような事が毎年続き、〔栄蔵〕は、『お代官』にも『漁民』にも嫌われました。
 悩みに悩んだ〔栄蔵〕は、やがて酒に溺れ、悪所通いが続き、ついに18才の時、「私はこの仕事に向いていない」と言って、「お酒を飲みに行く」と言ったその足で、お寺に駆け込み、髪を切って出家してしまったのでした。
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そして、もう二度と家に帰ることはありませんでした。
家族が来ても会いませんでした。(のち、山本の家は、弟が継ぐことになりました)
 さて、〔栄蔵〕は名を『良寛』と変えて、仏道修行に邁進していくになったのでした。 つづく

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