『因幡の源左さん』という、熱心な(文盲の)念仏者の紙芝居を作ってから、ずっと気になっている言葉がある。
それは『心の闇(やみ)』という言葉だ。
この『心の闇』とは、鳥取の『源左』さんゆかりのお寺〔願正寺〕の御住職から、直接聞かせて頂いた言葉で、
僕が「なぜ、源左さんはまだ交通の便もままならぬ明治の初期に、京都や各地のお寺に(家族を残して、しかも新婚の時から)命がけで(何度も)出かけて行き、有名な布教使さんからお説教を聴かれたのでしょうか?」と、お尋ねした時、
ご住職は、「おそらく、源左さんはそれほど『心の闇』が深かったのでしょうねぇ」と云われた、・・その言葉なのだ。
「『心の闇』が深い」、この言葉がずっと僕の中からぬけない。
おそらく誰でも(子供でも)、『心の闇』は持っているだろう。
その『闇』というものが深い。
う~ん、闇が深ければ深いほど、人はその闇に光をもたらそうと熱心に、又救いを求めて(極端に言えば命がけに)なってもがくのだろうか?
僕はどうなのか?
『心の闇』。・・『広辞苑』で引いてみた。
『心の闇』=〔思い乱れて、『理非』の判断に迷うことを、闇にたとえていう語。〕=「なんか、軽いような(笑い)」
では『理非』って何や?・・『広辞苑』で又、引いてみた。
『理非』=〔道理にかなっていること、かなっていないこと。〕
うーん、『道理』って何や?
『道理』=〔物事のそうあるべきすじみち。人の行うべき正しい道。〕
『そうあるべき』って何や?・・載ってないやんかいさ。
つまり『心の闇』とは、〔人の行うべき正しい判断に迷い、パニくってる苦しい自分の状態〕とでもいうのだろうか。・・ちょっと、まだ軽いようだがええとするか。
それが、『深い』のだ。
『源左』さんは、深く深く、(自分の心の中の)道理の判断に迷い、正しい道を模索するため、命掛けで『救い』とは何か?を追求したのかもしれない。
さて、僕はどうなのか?
『心の闇』はまだ浅い・・ような気がする。
「闇が浅けりゃ、道理が引っ込む」ってか。
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心の闇
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カンネン亭 2012年04月15日(日)17時47分 編集・削除
闇なんか、無くなったら良い。・・と、思いながら、でもやっぱり、闇があるからこそ、光の有難さがわかるのだ・・とも思います。
愛子 2012年04月13日(金)23時54分 編集・削除
海の底が深い深い深い深いほど
空が高い高い高い高いって・・・
どこかの本に書いてありました。
闇が深い深い深い深いほど、
救い上げる場所も高く高く高く高くなると。
よく分かりませんけど、
ほんのちょっとだけわかる気がします。
自分で深い場所まで潜って行ったことが有ったような気がするので・・・・
でも今は水面でぷかぷか浮かんでるので
もう忘れてしまいました。(笑)