住職のつぼやき[管理用]

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『ゴメンください、ドナタですか、アミダ仏です・・ありがとう』

 先日、或るお寺の〔お説教専門〕の先生がこう教えて下さった。
 「浄土真宗の〔他力本願〕の教えというのは・・、
 アミダ仏の『人間を救うぞ!』という願いが、我々の元に届いたその証として、私たちの口から『〔仏様ありがとう〕という意味の《ナムアミダブツ》という感謝の《お念仏》』が出てくるのです」と言われた。
 考えてみればこの理論はややこしく難しい・・。
 この考え方でいけば、我々は困った時でも、「仏様っ!救ってくださ~い」と《お念仏》を称えるのではなく、「仏様っ!救って下さっているのですね、ありがとう」と言っていることになる。
 つまりもう結果がでているというべきなのか・・。
 困ったままに《感謝》をすべきという事なのか・・。
 又、これでいくと《仏様》と《私》は、常に対象的にあるのではなく、《仏様》がすでにこの《私》を統括してくださっていると考えて良いのだろうか・・。
 つまり、この私は《仏様》の救いの中で悩んでいるのか?
 《仏》と《私》ではなく、《仏》の中の《私》・・か。
 ああ、頭の回線がコンがらがる!
 一晩考えて、僕は『吉本新喜劇』流にこう結論を出した。(なんで『お笑い』に走るねん・・〔笑い〕)
 新喜劇には〔クワバラカズオさん〕という芸人がおられ、劇中でいつも登場する時、「ごめんください、どなたですか、私は○○に住んでるクワバラと申します、お入り下さい、ありがとう」と全部一人でやってのけ笑いを誘うギャグを披露する。
 僕は、《仏》と《私》の『お念仏』での関係は、この〔ギャグ〕で表せると思ったのだ。(「怒られるで、しかし・・」)
 つまり僕の勝手な《仏の中の私》という《お念仏》解釈はこうだ!
『(ゴメン下さい、どなたですか) 私は皆ができない難しい修行をみんなの代わりにやって仏となった《アミダ仏》というものです、だからあなたはもう修行をしなくて良いのです、すでに救われているのですよ、信じますか、信じてますよ、ありがとう、いえいえこちらがありがとう』・・・と一人でやっている、これが浄土真宗の《お念仏》ではないだろうか・・?!
 「なんか僕、間違った事言うてまっか!」・・今度いっぺん偉い先生に聞いてみたろ!(「やばいで、しかし・・」)
 もういっぺん言おか・・。『ゴメン下さい・・やめとこ』

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