住職のつぼやき[管理用]

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「ハニカミ王子」と『聖徳太子』:紙芝居の話

「ハニカミ王子」というのは今流行りの若きプロゴルファー。
 もちろんそれはニックネーム(愛称)である・・。
 それでは西暦622年2月22日に亡くなられた『聖徳太子(しょうとく・たいし)』は?・・実はこの有名なお名前も「ニックネームなのだ」と言われている。・・ちなみに太子の本当の名は、馬小屋の前で生まれたので〔廐戸皇子(うまやどのみこ)〕と呼ばれていた・・らしい。(西洋の誰かさんみたい・・)
 この『聖徳太子』という名は、太子の師であった〔恵慈(えじ)〕という外国の僧が、太子が亡くなられた時「玄(はるか)なる聖(ひじり)の徳をもち、日本の国に生(あ)れませり」と言われた事から没後に付いたのだ、と伝わっている。(ではいったい誰が付けたのだろう?・・僕はそんな事が気になってしょうがない。)
ファイル 67-1.jpg (仏教もの26)
『聖徳太子』は政治家であったと同時に、日本仏教の《祖》であると言われている。
 それは太子が日本に仏教を積極的に招き寄せ、その普及の基礎を築いたからである。
 太子は今から千四百年前に《王族》の皇子として生まれた。
 この当時、まだ日本は政治的に不安定で、各地域の《豪族》達が、お互い権力争いをしていた。
ファイル 67-2.jpg
 特に〔仏教大好き一族の《蘇我(そが)氏》〕と〔仏教大嫌い一族の《物部(もののべ)》氏〕という二大勢力はついに衝突、大戦争を起して、《蘇我氏》の血を引く〔太子〕はわずか14才で参戦して大活躍し《物部氏》を滅ぼす。(なんかこの若さで活躍するのも〔ハニカミ王子〕に似てるね・・余談)
 しかし、戦場跡のおびただしい遺体を前にした太子は、「何の為に自分は仏の教えを学んだのか?」と深く落ち込み、この時の反省からのちの《『和』を以って貴しとなす》で始まる『十七条憲法』が生まれる事になる。(これも余談だが、僕は学生の時にこの『憲法』を読み、「これって『憲法』ちゃうやんか。『道徳』やんか!」と思ったのを覚えている。おそらくこれを『憲法』の第一条に持ってきたのは太子の平和を願う熱い思いがあったに違いない・・と思う)
ファイル 67-3.jpg
 話がそれたが、太子は戦さに勝ったのち、天皇を助けて政治を取る『摂政(せっしょう)』という位につき、次々と理想の政治改革を成していく。たとえば先の『憲法十七条』の制定。病院・薬局・福祉施設などを兼ね備えた国立の寺院『四天王子』の建立。などなど。
 さらに外国との文化交流(美術・音楽・医学・建築など)を目的とした『遣隋使』の派遣なども、やっちゃっているから凄い!
 しかしそのあまりの激務の為、やがて太子は49才で倒れ亡くなってしまう。
ファイル 67-4.jpg
それでは、天皇になれず皇太子のまま亡くなった『聖徳太子』の最後の言葉で終わりたい。「世の中は虚しい。ただ《仏》のみが誠である・・。」 
『聖徳太子』は今僕の住んでいる〔河南町〕のすぐ北にある〔太子町〕で葬られ眠っている。 
 ・・もうちょっとだけオマケの余談。実はこの『紙芝居』を何年か前に《蘇我氏》の末裔の方々に見ていただいた事がある。「へ~っ、そんな事があったんか。先祖の事もまだまだ知らん事があるねんなぁ、ありがとう」とおそらく冗談であろうが、そう言われ、僕は思わず『ハニカミ法師』になったのを覚えている。おしまい

 

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