住職のつぼやき[管理用]

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心のこもった『読経』って、何?

 昨日、或る方のお参りが終ったのち、施主さまから「心のこもった御読経、有難うございました」と言われた。
 それを帰って自慢げに(笑)、妻に話したら、「お経をあげる事に、『心をこめる』とか、『こめない』とかっていう表現は、ちょっと間違っているのと違うの?」と言われた。
 その言葉に『ムカッ!』として「何でやっ!?」と言ったら、妻は「・・だって、仏様の《言葉》を、あなたが代わりに、そのまま、お伝えしているのでしょう?・・だったら、『心』をこめなくても、そのまま淡々と称えるだけで、ちゃんと伝わるのと違うの?そら、お経の文句を間違ったらあかんやろけど・・」と、言いやがるではないか!
 僕は「そやけど、ボーっと読経するのと、意味を味わいながら、読経するのとではやっぱり違うと思うぞ!」と言った。
 すると妻は「それはあなたの〔満足感〕と違うの?」とまだ、言いやがるではないか。
 それで僕は「『心をこめる』っていうのは、仏様や亡くなられた方の家族さんの気持ちを大事に思い、そして労わり、思いやりの心を持つ事やと思う。とても大事なことなんじゃ!ボケッ!」と言った。(訂正:「ボケッ」とは本当は言ってない。そんなん言ったら、晩ご飯ぬきになる!〔笑〕)
 妻は「でも、やっぱり《読経》に『心をこめる』っていうのは、私は違うと思う・・」と言った。
 ・・その後、この話は絶ち切れたのだが、今、考えたらやはり妻の言っていた事の方が、正しいような気がする。
 《心をこめる》=『自力』、《心をこめない(否、そのままお任せの気持ちでお伝えする)》=『他力』、にそのまま結びつくかどうかはわからんが、・・僕の仕事は、仏様のお言葉を間違いのないように、そのまま右から左へお伝えすることが、一番ベストなような気がするのだ。
 ・・とは言いながら、《心をこめる》っていうのは、僕の性分。
 間違っているかも知れないが、やはり死ぬまで、このまま通すような気がする。

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