住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「石山合戦始末記」(その4)

 ・・余談になるが、ここまで読んで頂くと、長男[教如(きょうにょ)]上人ってタカ派なの?って、思われる方も多かろう。
 確かに、戦国武将のような勇気と人間的魅力を持たれた御方であったと思われる。 
 しかし僕は、やはり教如上人も(誰もが持つ)人間的弱い部分を一杯もっておられたの方ではなかろうか?と思うのだ。
 実は昨年の10月、この紙芝居を作る為に、滋賀県の『長浜市長浜城歴史博物館』へ教如上人の事を調べに取材に行って来た。(ちょうど『顕如・教如と一向一揆』という、特別展が開かれていた為だ。)
 そこで、教如上人の直筆で書かれた、石山本願寺を退出するに当たっての母親への手紙というのを拝見してきた。
 その手紙には、(脱出時の)教如上人の不安な気持ちが、母親宛にいっぱい書かれてあった。(長くなるので内容は書かない。アニメ一休さんの終わりの歌「母親さま~、お元気ですかー」みたいなもの?・・ちょっと違うかな⁈)
 人間を一律に[タカ派]と[ハト派]に決めてはいけないような、そんな気が僕はしたのだった。(長い余談終わり)
 さて、『紙芝居』に戻りましょう。
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 大阪城を脱出された[教如]上人は、その後、紀州(和歌山)・美濃・高山(岐阜)、そして越前を転々と秘回されます。(・・絶望的な気持ちであったかもしれません)
 が、しかし、又歴史が動く時が来ました。
 織田信長が、天正十年(1582)に、家臣の反逆によって、本能寺で自害するのです。
 信長は「是非に及ばずだぎゃー(「仕方がない」、大阪弁でいうと「しゃーない」という意味)」と言って、この世から去りました。
 この事件によって、のち、主君の仇討を果たした豊臣秀吉が天下人になります。
 そして、信長軍に追われていた[教如]上人も許されて、父[顕如]上人と和解。
 ようやく、又親子は仲よく?一緒に暮らすことができたのでした。
ファイル 1273-2.jpg
 そして顕如上人たちは、やがて和歌山を離れ、大阪府貝塚にある『願泉寺』を本願寺の寺基(じき=ご本山)として、転入されました。
 さらに、そこから大阪の「天満」に移り、やがて天下人秀吉からの助言(命令?)によって、京都の「堀川」(今の西本願寺の場所)に「荒れた京都の町を本願寺の力で、又復活させてちょう。頑張ってもらわんといかんわぁ。」と言われて移るのでした。 つづく

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